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2013/08/04

バルスに寄せて その1

 2年前の「天空の城ラピュタ」の放映時、「バルス」のツイートが1秒間に2万5千を数えたことについてエントリを書いた。そしてこの前、同じ映画の放送の同じタイミングにおいて、バルスのツイートは1秒間に14万を超えたという。mixiもニコニコ動画も前回の教訓を旨に、サーバーの増強、特設会場の設置等をして事態に備えたようだった。

 それまでの世界最高秒間ツイートは2年前のバルスを抜いた、今年元旦未明の「あけおめ」というツイートで、それは3万を超えたという。今回の記録はそれを4倍以上上回ったことになるが、それにしてもこれらはいずれも日本において樹立された記録であり、とりわけ年頭のあいさつなどはそれぞれの国で行われていることを考えれば、何故日本だけがこのように同時ツイート数の記録を打ち立てていくのかと考えざるを得ないところである。
 私たちはいったい何に向けて呟いているのだろうか。

 興味深いのは今回の同時ツイートの様々な報道に関連して、前回はそのサーバーをダウンさせた2chの名前はほとんど挙げられず、この数年間で広大なネットワークを構築するに至ったFacebookが取りざたされることもなかったことだ(2chは今回も実況板のサーバーがダウンしたらしいけど)。バルスはtwitterという基盤に集約されつつある。
 しばしばFacebookはtwitterと比較してその仕組み上、向社会的な側面を強調しがちであると言われており、また2chの板に集う人々は不特定多数でありながらも住人と呼ばれるある集団を形成するのに対して、twitterで特定の呟きをする人々は特定化された場所、時間、ネットワークなどを共有しないクラスタと称されている。このことが示しているのは、私たちの文化はある種の体験を共有するにあたって、集団に属する個人としてではなく、拡散した個人の同時的な発生としてそれを体験するようであるということである。「あけおめ」はメールサーバーへの負荷が相当なものとなることが示すように、特定の社会的つながりのある誰かに送られるとともに、同時ツイート数が指し示すように、不特定多数の、というよりは誰でもない誰かへと呟かれている。同じように「バルス」は誰かと共有されるために呟かれるのではなく、私的な体験として呟かれており、にも関わらず、全体としてそれは共有されている。
 そこには主体としての私も、客体としての他者も存在していない。ただ体験は、「誰が」「誰と」ということを問われることなく共有されているのだ。
 なぜそれが日本に特異的に生じるのだろうか。

 私はそれが日本語の構造と関係しているのだろうと思っている。

 FreudやBowlbyが言うように、人間の根源的な生存への傾向とその生物学的な基盤とが、他者との、とりわけ母親との関係にあるとする時、その集約された社会的な言明はI love youという構文によって示されている。言うまでもなく「I」は主体であり、「you」は対象である。その結びつきを動詞が担っているのだけれども、そのように動詞は言語構造の中核にして、その前後を結びつける重要な機能を有している。けれども日本語においてはそうではない。「私はあなたを愛してる」という構文において、「愛している」は「私」と「あなた」を事後的に結びつけるのであって、態度の表明は最後まで留保されている。対象の指示が先に来るのであって、動詞的表明は後に回されている。そのことが何を意味するのか私にはまだ分かっていないのだけれども、日本語におけるこの構文は、さらにたんに「愛してる」という形式で表明される。構文の中に残されることで動詞はやはり言語構造の中核的な役割を担い続けるが、それは主体と対象の背景化をもって成し遂げられる。「私」も「あなた」もここには言及されてはいないのだ。それはもはや構文ですらないかもしれない。主体も、そしてその対象も発言の背後に潜んだままであり、ただ「愛している」という状態だけが明示的に述べられており、日本語とはそのように体験だけを前景化する言語なのだろう。
 「体験を共有する」という発話について考えた時、そこにも同じように「誰が」「誰と」ということが明示されないままに、共有が生じることが観察される。日本語の構造はそのように、主体と対象を客観的な存在として言語の中に含めることなく成立している。主体も対象も、確かにそこに存在しながら、発話の背後に退いているのであって、そのような構文がネットワーク上に放たれた時、ただ体験だけが同時発生的に生み出されていく事態につながるのだろう。それは「私」の体験であると同時に、「あなた」へ向けられたそれであり、しかしそのことが言明されないことで発話者とその受け手との透明化された動詞だけが宙に放たれる。そのようにして私たちの心のありようは、誰でもない誰かに対して、私的な「バルス」を呟いている。
 だからこそ、日本においてこうした同時ツイート数の記録が打ち立てられていくのではないだろうか。

 それは本来的に私的な体験なのだ。

 それは共有された公的な体験ではなく、私的な体験の共有された集合なのであって、翻ってそのために舞台はtwitterへと集約されているのだろう。今回のバルスの同時ツイートに対し、もはやこれが祭りとしてイベント化されたものであり、そこには他者との共有を求めて人々がこの言葉を呟いているという理解もされるけれども、そうではなくて、これはもっと個人的な営みに根ざしたものなのではないだろうかと思うのだ。そしてもちろん「バルス」という滅びの呪文が呟かれることに、私的な滅びの感覚が内在化されていることを考察できるわけだけれども、それと同時にこうした私的なつぶやきが、イベント化され商業化されるところに何が滅びをもたらすのかという実態を垣間見ることが出来るだろう。
 長くなりそうなので、それについてはまた次の時に考えてみたい。

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