« Bollasの理論について その2 | トップページ | バルスに寄せて その1 »

2013/07/09

Bollasの理論について その3

 前回から間が開いてしまったけど、続き。

 Bollasには精神分析家には珍しく、発達理論がない。ないわけではないけれども、Bollas独自の発達論が明確にあるわけではない。Winnicott自身も一貫した発達論を持っていたわけではないが、すでに述べたようにBollasによって取り入れられたような発達促進的な環境としての母親という概念、あるいは偽りの自己の発達、攻撃性と現実との関係、錯覚と脱錯覚といった発達論を提示している。Bollasがそれと並ぶ何かを提供しているようなことはなく、基本的にはWinnicottのそれにのっとりながら、むしろそれを心と自己との関係を捉える1つのモデルとして使用している。唯一の発達論が、すでに述べた自我の成り立ちであり、そこではWinnicottを引き継ぐ者らしく、外界の対象としての母親による取り扱いを強調している。
 しかしながら、その概念化がBollasの理論に、Klein派とは違う、そしておそらく同じくWinnicottを引き継ぐOgdenとも違う、彼独自の色合いを与えている。私はOgdenにそれほど詳しいわけでもないのだが、OgdenがWinnicottをFreud以降の精神分析における最も重要な人物として重視していることは明らかであるが、同じくKlein、そしてBionへの参照も忘れない。分析の第三主体についてOgdenが述べるように、その理論は心理療法とは分析家と被分析者の遊びが重なるところというWinnicottoの遊びの含意、そして言うまでもなくKleinの投影同一化、Bionのもの思いの理論に拠っている。分析家と被分析者との間主体的な交流の内に、分析の第三主体と呼ばれる何かが生まれ、それがもの想いを通じて心理療法家に何かを伝える。差し当たり「何か」としか言い様のないそれは、Freudにおける「それ」、英語ではイドと訳されることになる「それ」であり、無意識のコミュニケーションはそのように第三主体を通して2者の間に立ち現れる。
 それは、とりわけKleinの概念化において顕著なように、能動的なコミュニケーションである。投影同一化という概念が含み持つ空想がすでにそうであるように、それは耐えがたい苦痛を排泄し、投げ込むという形であれ、取り入れ同一化の空想におけるように、対象を飲み込み、体内化する形であれ、乳児が母親に対して無意識的空想において行う1つの行為である。母親はその時投げ込まれるものの受け取り手であり、あるいは食べ尽くされるものの送り手であると同時の包容し、その空想をもの想うもう1つの主体であり、そのようにしてここには異なる2つの主体の交流が描かれている。いずれもが独立した、別個の主体であり、そうした認識がこれまでの対象関係論を大きく貫いていた。それはOgdenにおいても同じであっただろう。

 Bollasが決定的に異なるのは、(私の理解ではなのだけど)この点においてである。

 Bollasにとって乳児の体質から生じる自発的身振りはそれ自体能動的なものである。同時にそれは環境からの応答を必要とするものである。それが苦痛なものの排泄として現れるにせよ、静かな瞬間のまどろみにおいて生じるにせよ、その点では主体としての乳児からそれを受け取るもう1つの主体へと伝えられるコミュニケーションである点において、Kleinの発想と大きくは違わない。けれどもそれは受け取られた後で、対象によって取り扱われる。もの想いにおいてその意味するところを理解された後、乳児の自発的身振りは抱き、抱え、あやし、なだめる母親によって取り扱われる。そのようにして身振りは身体を通して現実との接触を確立する。Winnicottが言う本当の自己が成り立つのはこの瞬間においてである。もちろん母親はある程度失敗する。「ほどよい母親」という言葉に含まれる母親の失敗は、乳児が本当の自己では世界を生きていけないことを意味するけれども、それはまた攻撃性の理論においてそうであるように、それによって万能の領域の外側を発見することにある程度貢献する。それが現実の発見につながるのか、現実の裂け目としての破局に向かうのかは、2者の交流の室によって決定されるところが大きいが、そのいずれの瞬間においても主体としての乳児は母親という主体によって取り扱われる対象であり、能動性は次の瞬間に受動性へと道を譲るのである。
 心は、自我は、自己は、そのように原初の交流において、対象によって取り扱われる対象である。
 それは受け身の瞬間であり、自我は能動性の次に来る受け身の瞬間を引き継いで、その過程を、その構造を、あるいはその態度を形作っていく。あるいはそのように形作られていく。そこにはKleinが描いたような、能動性に満ちた乳児の姿はない。例えばKleinが遊びの中に子どもの空想を読み取った時、そこに描かれるのは排泄し、切り刻み、噛みつき、脅え、いたわり、気づかう、そうした子どもの姿であった。対象はその子どもの対象として重要なのであって、対象に取り扱われる対象としての子どもは描かれない。攻撃性の投影同一化は復讐し、報復する対象を作り出すだろう。破壊への気付きは対象への償いに向かうだろう。対象がどのように空想されるにせよ、子どもは対象に行為し、対象は子どもに行為するのである。解釈は子どもが対象に向ける能動性に焦点付けられるのであって、その1つの焦点が攻撃性になるのは、不安という受け身の現象を能動の言葉で語るうえでの必要に迫られたからであるように思える。その死の本能論をどのように考えるか、という側面は別にして、子どもとは愛し、憎み、攻撃し、償う、そうした能動的な存在なのである。それに対してBollasの描く対象の影の落ちた自我とは、それ自体対象による自己の取り扱いを引き継ぐものであって、対象とは主体の能動性の対象であると同時に、自己を取り扱う主体なのである。「私」の存在することが成り立つためには、他者によってどのように取り扱われるかを考慮しないわけには行かないし、そのように母子とは一組なのである。他者なしに「私」は存在しえないという危うさを、そのはかなさを、Bollasの理論は提示している。
 「私」とは「あなた」によって成り立つ1つの過程なのである。

 心理療法家であることとは、この自我の営みになることであり、それを取り扱い、それに取り扱われ、そのようにして主体と対象とを行き来する過程であることなのである。そうした認識の在り方に、Bollasという分析家の独自性と特異性が存するように私には思える。

|

« Bollasの理論について その2 | トップページ | バルスに寄せて その1 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/88325/57753991

この記事へのトラックバック一覧です: Bollasの理論について その3:

« Bollasの理論について その2 | トップページ | バルスに寄せて その1 »