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2013/07/03

Bollasの理論について その2

 Bollasを一躍有名にしたのは、変形性対象という概念ではないかと思う。対象という言葉を使ってはいるけれども、対象はむしろ過程の一部であるという点において、いわゆる対象概念とは理解を異にする。

 それについて語るにはおそらく乳房から始めるのが良いのだろうと思うけれども、Freudにならい、Kleinも乳児の欲求をほぼ口唇的なそれに限定して理論化してきた。乳児に必要なものはそれだけではないと言うかも知れないけれども、原初の対象として乳房を想定する時、そこには口と乳房の関係が何よりも重視されていることが見て取れる。乳児の願望がある時に、あるいは後に空腹と名付けられることになる苦痛がある時に、差し出される乳房は満足を与える良い乳房である。不在の乳房は乳児にとって苦痛を与える対象として悪い対象となるのだが、この時、良いと悪いは満足と不快とで色付けされており、つまりそこに無意識的空想が働いている。Kleinにとって、無意識的空想とは身体に根ざした本能の原初的な心的表現であり、あるいは感覚受容器によって受け取られた外的、内的刺激のそれであり、より高度な水準においてそれらは表象され、名付けられ、意識されていく。思考としてのこれらの水準のために用意されたのがBionによるGridであり、本能や感覚印象から無意識的空想より先の心的世界を構成する要素への変換に名付けられたのがα機能である。それはある程度現実を反映しているものの、死の本能の現れとしての攻撃性を心から排泄し、対象の中に押し込むという理解に見られるように、対象は内的世界において形作られる。対象は願望の対象であり、同時に苦痛をもたらす源泉でもあり、そして不快なものの排泄先でもある。それは自己と対峙されている。
 これに比べるとWinnicottは対象という概念を内的なそれと外的なそれとに同時に適用した。同時にそれを存在することの可能性に向けて使用した。おそらくそこにおいてKlein的な対象概念とは相容れない理解の方法が生じることになるのだけれども、乳房という満足や苦痛の源泉が乳児にとって対象である時に、実のところそれは母親によって差し出されているものである。Klein的な対象概念にはこの差し出す母親が含まれていないのだけど、そのために乳児にとっての乳房だけが対象として論じられている。けれども、Winnicottは満足や苦痛の源泉、本能の対象としての乳房を、「差し出す母親」という対象を同時に見ている。前者が対象としての母親と呼ばれるものであり、後者が環境としての母親と呼ばれるものである。Kleinが言う対象は母親によって提供されている。けれども乳児はそれが提供されたものであるとは知らないでいる。それが錯覚と中間領域という主題のもとで論じられていることであり、さらに言えばその関係は授乳においてだけ成り立つものではない。眠りにつく前のゆりかごの律動、お腹や頭をなで、トントンと叩く手の平のぬくもり、声の調子、乳児を見つめる目、その他によって、口唇願望のみならず、乳児という存在がそこにいることを可能ならしめるあらゆる母親の関わりについてWinnicottはおそらく述べている。
 同じ対象という言葉を使いながら、それによって記述される現象はかなり異なる。なぜそのような差異が生じるのか、という問いも興味深いところだけれども、私の理解では、それはパラノイドかスキツォイドかによる違いであるように思える。少なくともこの点に置いて、paranoid-schizoidという枠組みは適切でないように思えるけれども、それはまた別の話。

 Bollasが変形性対象と呼ぶのは、このWinnicottが環境としての母親として述べたものに関わっており、しかしながらそれは対象としての母親をも含んでいる。さらに言えば、それはおそらく対象と呼ぶことの難しいある種の体験の水準について言及している。
 乳児に後に空腹と呼ばれるようになるある状態が存在し、したがってそこに苦痛と願望との高まりがある時に、差し出された乳房とそれを差し出す母親とはいずれも乳児の危機状態を満たし、救い、落ちつかせる。そのようにして乳児のその状態は満たされた静けさへと変形される。あるいはそこでWinnicott的に言えば環境の側の失敗として、乳児の危機状態を増大させ、絶望させ、怒り狂わせるようになる可能性もあるだろう。事態はそのようにして変形されうる。いずれにしても対象とはそのように、苦痛の源泉として、願望の向かう先として、乳児の世界に現れ、母親から提供されるのみならず、それを通して乳児の内的状態を変形させ、その前後において存在のありようを決定的に変えていく1つの過程にあるものである。それはより静かな状態として眠りから揺り起こさない母親、遊びを見守り一人でいさせる母親においても同様であり、とりわけこの時には乳児の対象は母親ではない。存在することの連続性は環境としての母親によって守られており、維持されている。1つの存在としての乳児は、その願望は、その苦痛は、母親によって取り扱われており、その結果ある種の変形をたどる。Kleinにはなかったこうした静かな取り扱いをする母親を求める欲求をWinnicottは自我ニードと呼んだ。対象は願望の向かう先としてではなく、存在することのニードにおいて求められ、それは求められるのみならず、それを取り扱い、変形する、一連の過程を成している。Bollasが変形性対象と呼んだものは、そうした自我ニードの対象であり、同時にそれを取り扱う対象であり、それは一連の変形の過程において重要である。さらに言えば、イドニードを自我ニードに対比させたWinnicottとは異なり、おそらくBollasは願望も含めて自我のニードとしているように思える。これについてはまだ私の理解は明確ではないけれども。いずれにしても一人の赤ちゃんというものはいない、とWinnicottが言った時、その表現は自我ニードに応える母親が求められており、それなしに乳児は存在できないことを表していた。それはある関係であると同時に、一連の過程であり、対象とは過程において重要なのである。

 そのようにして取り扱われることになる自我ニードは、あるいはその主体としての自我は、対象による取り扱いを予期し、受け継ぎ、自らの欲求の有り様と存在することのある形式を作り上げることになる。Bollasはそれを文学者としての行き方からか、イディオムと呼ぶ。そこにはLacanの影響もあるのかも知れない。言語構造は心的構造を反映しているという発想がそこにあり、「お腹が空いた」というニードの表明は、それを受け取り、応答する対象がそれと知られずに存在していることで可能となる。そうした表明すらできない時には、拒絶し、処罰する対象がそこにあるかもしれない。中間の表現として「お腹が空いたけど」という表明において、自我は拒絶的で処罰的な取り扱いを受け継いでいる。自我のイディオムはそのように心の構造として対象による一連の取り扱いの過程を引き継いでおり、それはいまだ知られていないものである。どこかで知っているかも知れないけれども考えられていない背景として存在している、そのような対象であり、過程である。Bollasはそれを未思考の知と呼ぶ。おそらくそれは考える人のない考えというBionの概念と良く似ている。
 イディオムはそのように、対象による取り扱いの歴史を密やかに反映している。そのようにして対象の影が自我の上に落ちている。
 Freudが「悲哀とメランコリー」で同じ表現で対象と自我の同一化について述べたように、Bollasにとって自我の過程は対象を含み込んでいる。したがってそれは一方で自我のニードを取り扱う対象であると同時に、他方で対象によって取り扱われるものでもある。そこにはKleinが自己と対象として想定したような明確な区分が存在しない。ニードは自我によって取り扱われ、Bollasはそれを自己と自我の関係として描く。自己によって体験される自我は時折心としても表現される。そのようにして、対象が取り扱う対象としての自己という概念化や、自己が自らのニードを投影する心という概念化が生じるようになる。そこにあるのは自己と対象の関係ではなく、対象の影が落ちた自我と自己の関係であり、対象関係という表現に倣って言えば、自己関係とでも言えるだろう。KleinとWinnicottあるいはBollasの違いを私がパラノイドとスキツォイドによって捉える理由の1つはそこにある。自己は心と関係している。Freudがかつてイドから自我と超自我とが生成し、3者それぞれに葛藤する姿を描いたように、自己と心は自我から生じ、自我に取り扱われながらお互いに関係し合っている。対象関係とはその自我の過程のカリカチュアである、というのがBollasの言うところなのである。

 Kleinが子どもの人形遊びに対象関係を見た時に、その人形を動かす手が自我である。人形を動かし物語る一連の過程がイディオムであり、そこに対象の影が落ちている。私たちは人形のいずれかを自己や対象と言えるかも知れない。けれどもそれは自らの心の取り扱いや心による取り扱いを表しているとも言える。Bollasの見る世界はそのようなものではないかと、私は考えている。

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