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2012/11/12

精神分析学会第58回大会第3日目

 3日目は午前中に総会、被災地支援のパネルディスカッション、そして対象喪失のシンポジウム。

 今回の学会には2つの意味での対象喪失があったという発言があったけれども、1つは震災という未曾有の惨事における重要な対象(それが人であれ物であれ土地であれ)の喪失という意味で、もう1つは土居健郎、小此木啓吾という先達の喪失という意味で。対象とは「私」に分かちがたく結びついたそれであり、内的に、あるいは外的に存在する、「私」の世界を成すものである。その喪失は自己の世界の一部の喪失であり、あるいはその全てでありえる。
 喪失に伴う怒り、苦しみ、抑うつ、そして痛みを私たちはどのように悼むのか、それが対象喪失の主題である。

 私は前からこの言葉が持つ抑うつ的な響きを好んでいた。けれども、こと震災における対象喪失を考える時には、果たして私たちはそれを対象喪失と呼べるのだろうかと考えざるを得なかった。被災した人々の震災直後の出来事を語る口調は、どれもみな淡々としており、記述的で、それでもそこには無視することのできない圧倒的な何かがある。津波にさらわれた広大な土地の区画整理されたそこにはためく幟は、誰のものでもない記憶を記録している。
 それは抑うつ的な心の痛みではなく、剥ぎ取られた世界の墓標である。人々が生き、暮らし、そして死んでいくその世界の、根幹が転覆するような世界のありようを、私たちは喪失と呼ぶことはできないのではないだろうか。それはまだ情緒的体験に至る水準になく、表象化され、心のこととして語ることもできない、身体的、物理的体験であるように思える。
 β要素からα要素への変換の途上において、果たしてどの程度の時間が必要とされるのか。悲しみは心が働いたところでしか生まれない。危険と危機とに身体が反応している時、心の働きは大きく阻害されている(あるいは制限を受けている)。災害の記憶は身体において記録され、やがて心的処理を通過するのを待たれているけれども、喪失という語に含まれる喪の悲しみは、それ自体すでに心的過程であることを示している。

 心のものとはならない身体的記録をもたらす厄災を私たちは剥奪と呼ぶべきではないのだろう。

 Freudが重要な対象の喪失を語ったよりもずっと後に、BowlbyとWinnicottは乳幼児の剥奪を論じた。物理的、そして心理的生存に欠かすことのできない主要な対象とそれを服見込んだ環境とが暴力的に失われるそれを、彼らは喪失とは呼ばなかった。それは剥奪である。世界は剥ぎ取られている。
 剥奪はどのようにして心を含み込んだ喪失となるのか。喪失が痛まれることについて精神分析は長く論じてきた。けれども、心的外傷、虐待、戦争などに見られる心の象徴化の障害を論じるようになったのはごく最近である。痛みは身体的なものでありながら心理的なものであり、そうした両義性が成り立つ以前の衝撃を、それをもたらす剥奪的体験を、どのように喪失と痛みの水準に変換しえるのか。

 現実の世界において、今取り扱われるべきなのは対象喪失であるだろう。けれども、立ち現れる新たな事象として、悼むことのずっと前に立ちはだかるその問題を、私たちは主題とするべきなのではないだろうか。

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