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2012/11/11

精神分析学会第58回大会第1日目

 精神分析学会も、もう2日目が終わった。忘れてしまわないうちにメモ。

 1日目はケースセミナー、研修症例、そして教育研修セミナー。昼までの時間は別の用事を済ませて、夜の教育研修セミナーから参加。治療過程中期の問題についてのセッションであったけど、「中期」とは何かという話がないままに、分析の全過程が話され、フロアーからの質問を通じていくつかの意見が出てきたけれども、最後まで何をもって「中期」とするかについて話はまとまらなかった。
 前に講義で心理療法全般について語った時に、やはりそうしたやりにくさがあった。見立てやアセスメントが行なわれ、そこで関係が深まりを見せる初期と、心理療法における主訴が解消し、あるいは問題の区切りがついたところで迎える終結期との間に挟まれた、心理療法過程の中核的な作用が生じている中期をどのように定義するのか、というのは意外に難しい。

 精神分析や精神分析的心理療法においては、転移が発展し、転移−逆転移の中で個人の持つ病理、あるいはその構造に内包された痛みのワークスルーが為されることをもって中核的な作業が行われた、とするわけだけど、それでは何が中核的かという問題は、実際のところ事後的にしか分からない。今から話されるこの話題が、今生じているこの展開がまさしくこの人の中核的問題であると分かるわけではなく、むしろその後にさらに新しい状況が生まれてくることがしばしばだからだ。心理療法過程の中で、私たちはそれほど明確に現在地を知ることはできない。私たちが取り扱う無意識には、時間も場所も表象化された知覚も存在しないのだ。
 そうした中で、これこそが中核的な問題なのですということを指し示すには、一通り心理療法過程が通りすぎてしまわなければならない。一通り通りすぎた後で、あれが一番重要な空想であり、心的構造であり、対象関係であったのだと、それがこのように防衛され、転移され、実演されていたのだということを私たちは知るのだ。

 心理療法における中核的な作業が行われる時期を中期とするのであれば、それは事後的にそれと知られる。

 しかしながら、もう一方では、初期の関係、初期の展開については私たちはある程度その文脈の中で理解することができる。見立てやアセスメントが一応終わる時がその時であるし、そこには解釈から利益を得る能力の査定も、心理療法過程を利用する能力の査定も、自由連想の困難さやカウチを用いることの困難についての査定も含まれることだろう。自らの問題を語り、語る相手としての心理療法家の存在を知り、そうして両者の間で問題が語られることから取り扱われることに移行していく時、私たちはこれを初期から中期への移行期と呼ぶことができるかも知れない。
 初期においては現れ方、語られ方にムラや揺れがあった問題が、一貫したテーマを備えるようになり、同時に/あるいは、ある形の関係が持続的に続くようになる。連想がある一貫したテーマの下で解釈可能になり、いくつもの選択肢の中から安定して特定の解釈が選ばれるようになる。
 それは心理療法家の側の能力と個人の側の能力や病理との関数であるかもしれない。

 しかし、いずれにしても、ここにおいて初期から中期への移行は、事の生じている中でそれと知られる。

 心理療法過程について論じる時、そのように私たちは現在の視座と未来の視座とを選び取りながら話をしている。中期とは何かを論じるうえでは、この異なる視座があることに注意を払う必要があるのだろう。
 もちろん心理療法にとって重要になるのは、どこが中期であるかを事後的に示すことではなく、どこから中期が始まっているのかを、心理療法過程の中で捉えられることだろう。これについて考えるために、事後的にあそこが中期の始まりだったねと同定し、どこでそれを峻別できただろうと考えることはできるかも知れない。
 心理療法過程の期分けそのものについて書かれた論文はおそらくなく、もしかするとこれからの1つの研究の方向性として可能性を秘めているのかも知れない。

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