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2011/12/20

バルス!

 去る12月9日金曜日、「天空の城ラピュタ」が放映された。おそらくノーカット版だったのだと思うけど、私はそれをNPO法人の宿直をしながら少年と一緒に見た。ラピュタ城内で追いつめられたシータとパズーが「バルス!」と唱えた瞬間、twitterの瞬間ツイート数が25,088ツイート/秒を記録したという(リンク)。流れているツイートの1%をサンプリングしているという動画(リンク)を見るだけで、その瞬間がどれだけ特別なものであったかがよく分かる。この文化は何なのだろう。

 全世界の18%のツイート数を占める日本のtwitter利用状況において、2011年11月現在、(どうやって集計しているかは分からないけれども、Googleの統計をあてにすれば)ツイッターの1日あたり利用者数は約300万人、男性約6割、女性約4割、年齢別には35-44歳の40%を中心とした分布をなしているという。天空の城ラピュタの公開が1986年。当時10-20歳くらいであった層が現在のtwitterの中心であるということだが、それより下の世代になると18-34歳を合わせても18%。これだけを見ると今回の「バルス」ツイートがその代表性において日本の文化を表していると言えるわけではないのかもしれないけれども、若い年代の利用者が多いとされるニコニコ動画、それより上の年代の利用者が多いとされる2ch(実況板、vip板)などが軒並みダウン、あるいは入場制限をしてもなお遅延を発生させていることを見れば、少なくともネット人口におけるラピュタに関する投稿は、中でもとりわけ「バルス」ツイートは、今の日本における1つの象徴的な現象としてある種の共有された感覚を示しているといえる。
 「バルス」がこれほど共有されるのにはそれなりに理由があるだろうと思うけど、たとえばこれが一語文であることは、そのツイートを容易にするきっかけにはなっているだろう。同じラピュタ内でのよく知られるセリフ、「見ろ、人がゴミのようだ」とか「目が、目がぁ」とかに比べると(両方ともムスカのセリフだ)(そしてこうしたセリフを文字に起こすと何か気恥ずかしいものがありますね)、打つべき文字数が圧倒的に少なく、ツイートするという行為自体がまるで滅びの呪文を唱えることと同じ作用をもたらすかのようでもある。このセリフが使われる前後には十分な溜めがあり、このセリフを境にして状況が大きく変化する、終盤の山場であることもラピュタの視聴者に訴えるものがあるのだろうと思う。もしかしたら他にも理由はあるのかもしれないけれども、私はこのツイートに関する重要な要素として、ここにパズーとシータへの同一化が認められることに注目をしている。比較のために何を持ってきたら良いのか分からないけれども、たとえば今日、金正日総書記の死去が発表されたけれども、こうしたニュースへの反応には(不謹慎ではあるけれども)「キター」という言葉が使われる。一時期流行したこの表現は外からこの出来事に反応していることを示しているのであって、これと比べれば明らかに「バルス」ツイートは物語を内側から体験している。あるいは2003年に放送された「アニメ名セリフベスト50」(リンク)の中のセリフを見ても、テレビを見ながら同じセリフをツイートするということは生じそうにない。パズーという男の子とシータという女の子の両方がこれに加わることで、男の子も女の子も、男性も女性もこの物語に参加しやすくなるという設定もあるのだろう。追い込まれたところからの唯一の反撃という文脈も、見ている子ども(や大人の中の子どもの心の部分)を引きつけるのかも知れない。
 「バルス」は内側から体験されているのである。

 今の30代はちょうどこの映画が公開された頃に小学生だった年代であり、その成長の過程で何度となくこの映画のテレビ放送に立ち会ってきた。それより若い世代において、宮崎アニメはほとんど何の違和感もなく繰り返し視聴されてきたであろう映画であり、その影響の大きさがこの「バルス」ツイートに現れていることを思えば、そこに内在化された滅びの呪文としての性質には一瞥の価値があるように思う。

 言うまでもなく「バルス」は、高度に発展したラピュタ文明に終焉をもたらす滅びの呪文であり、実際映画の中でこの場面を機にラピュタは崩壊し、地上から(というよりも地上という人間の住む領域との関わりのある空間から)消えていく。けれども、この物語のメッセージを表すように、パズーとシータは木の根に助けられ、滅びを免れる。ラピュタ上層部に築かれた建物も、そこにある庭も、そしてそこにいる鳥やロボットも滅びることはない。滅びるのは地上に向けられた兵器を抱えた下部であり、また兵器として動いていたロボットである(その辺の描き分けが宮崎アニメの上手なところだと思う)。ナウシカ−ラピュタ−もののけ姫という対象年齢も、その表現様式も異なるアニメにおいて訴えられるテーマはしかし、いつでも自然と人間の共生にまつわる何かであり、その文脈において「バルス」は行き過ぎた文明への抵抗を、自然との共生への反転を表す象徴的な結節点を為している。
 それを宮崎アニメは滅びとして表現する。
 そして私たちはこの言葉をこれほどまでに共有し、内側から体験している。

 このエントリを書いている間にいつものように1時間くらいの時間が経過しているのだけれども、その間に私はラピュタにおける「バルス」について考えながら、バベルの塔の神話を思い出してもいた。天まで届く塔を創ろうとした人間に神が怒り、塔を壊し、人間に異なる言語を語らせ、地上に散らばらせた、という、Bionがエディプス神話とともにしばしば引用する精神のある種の原型としてのあの神話である。これについて私は細かなことは知らないが、創世記に出てくる話であるようで、天まで届く塔を創ろうとした理由、人間の思い上がり、塔の破壊といった要素は創世記には出てこないものの、その後の解釈の中でこれが付け加えられたことを考えれば、その共有された物語としての意味合いはラピュタと「バルス」に相当する構造を有している。けれども、西洋の神話との対比を行うことでより明確になることなのだと思うけれども、ラピュタにおける(そしておそらく日本における)滅びは怒りではない。むしろ物語の文脈に則れば、それは悲しみであり、終わりの認識であり、失うことへの前進である。何よりそれは主体の内側からもたらされる。神が塔を破壊するという超自我的な構造を取るバベルの神話とは異なり、ラピュタでは子どもの手によって、つまりは新しい世代の担い手によって、滅びの呪文が継承され、また唱えられている。それは私たちが同一化する対象であり、取り入れうる対象なのであり、そうして滅びは私たちの内側において選択されている。ユング派的な死と再生の物語がそこに描かれ、膨れ上がった自己愛への地に足のついた(あるいは知に足のついた)気付きが抑うつを伴う破局的な変化として映し出される。それは神としての父にではなく、子どもたちの側に内在している破壊であり、私たちが生き延びるための逃れようのない選択として私たちに内在化されてきたのだ。
 宮崎アニメが描いてきた自然との調和の物語が、大人への訴えではなく子どもたちへのメッセージとして広まり、そのメッセージを受け取った世代がこうして大人の時期を迎え始めたことを思うと、その物語の構造に託された現実へと働きかける力がどのように新しい世界を導いていくのだろうと、宮崎アニメはそこに一体何を仕掛けたことになるのだろうと思うわけで、奇しくも東日本震災直後の原発事故によって科学技術を驕る人間の矮小さを暴力的なまでにあぶり出され、にも関わらずそれを認めないという当然の反応をももたらしているこの状況で、滅びの呪文を内在化した世代が作り上げる世界はどうなるだろうと思うのだ。25,088ツイート/秒を記録した日本の若者たちはどこかで滅びの呪文を唱える機会を感じているのではないかと思うし、それは一方では、資本主義経済の行き詰まりや教育の疲弊、都市部においても農村部においても生じている閉塞感といった、かつて日本を支えていた成長神話の陰りを目の当たりにした私たちの文化的反応ではないかと私は思うし、他方ではルソーが唱えた(と流布される)「自然に帰れ」という主張に含まれる打ち消すことのできない生物としての原初的感覚に基づく転回ではないかとも思う。
 それがどのように現実化されるかは分からないにしても、子どもたちから立ち上がる新しい物語への滅びはすでに始まっているのではないかと思える。私たちに内在化された「バルス」は、そうして次の物語への序曲を静かに奏でてるのではないだろうか。

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