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2011/11/13

成長できない人のいる社会

 私の関心はもともと内的世界のありように向いていたので、発達障害や知的障害といった人たちの支援にはあまり向いていなかったのだけど、非行や犯罪と関わるようになって、しかもその人たちの社会復帰ということに取り組むようになり、遅まきながらいろいろと考え始めた。

 現在、月に2回精神分析的な観点から司法心理療法について考えるという研究会を行っているのだが、そこには刑務所で働いている心理士や警察の少年育成官などが参加して、子どもと大人の非行や犯罪の理解について話し合われている。
 今回、そうした話の中で軽度の障害を持った子どもの話題が出てきた。
 私自身は大学院の相談室でそうした子どもを持つ保護者と関わることはあるにしても、司法領域で軽度の障害を持つ子ども、というか司法の言葉で言えば少年に関わる機会はなかったが、参加者が話していたのはそうした少年たちの就職先の話題だった。ある程度の障害があれば、それに対する障害者手帳の交付や職業訓練、障害者枠での雇用、などある程度の支援は整えられている。雇用する企業としても、障害のある人をどのように雇用するか、という枠組みを作った上で彼らを迎え入れている。しかし障害が軽度であればあるほど、それゆえに経済的にも、就業上も、障害のない、あるいはほとんどないといえる人々と同等の扱いを受け、むしろ障害を理解されないままに仕事のできない人として職場を追われたり、失ったりすることがしばしばであるという。
 就職をしても結局作業所に戻ってくるのだという。

 もちろん司法領域での話なので、そこには本人のやる気の問題や行動問題の存在も関わっており、通常の(と言って良いかどうか分からないけど)障害者の問題と同列には語れないのかも知れない。けれども、作業所などと連繋をしているとそこでの軽犯罪が話題に上ることもあり、医療機関にかかっている人たちだって事件化してはいないものの、場合によっては検挙されうる行動を取ったりしているわけで、もしかするとそれは私が思っているよりもよくある問題であるのかも知れない。
 いずれにしても障害が軽度であることの問題は、それが軽度である点において就業上の(あるいは社会適応上の)大きな問題を孕んでいる。

 もっと仕事ができなくても良い社会にはならないのだろうか、と、そういう時に考える。仕事ができなくても良いというよりも、仕事を十分にしきらない人も継続して働けるようなことが実現した時に、社会は様々な人を包摂できると言うのではないかと思うのだ。

 TPPへの参加についての議論がかまびすしい数週間だけれども、TPPそのものについて私はよく分からない。けれども、小泉内閣の時にもそうであったけれども、自由貿易や国際競争力といった言葉で語られる社会というのは基本的に時間の経過とともに産業が発達し、力のある企業がより利益を生み出せる成長モデルに則っている。競争が生じることで社会全体が「良い」方向に進んでいくように思われている。まるで産業革命における巨大な工場が自己増殖するみたいに、そのもとで雇用が増え、経済的発展が遂げられ、社会の進歩がはぐくまれ、豊かさが訪れると考えられているかのようだ。そこでは逆に成長し、競争力をつけ続けることが宿命づけられていて、歯車が回転をやめてしまえばあとには静寂が訪れることを誰もが感じている。歯車は回転し続けなければならない。
 けれども、実際のところ、できるだけ早く、正確に歯車を回転させるには、つまり企業が競争力をつけるためには、能力のあるできるだけ少ない人数で事業を展開できる方が良い。リストラという言葉が本来的な意味での再構築を意味するのではなく、首切りを意味することになっているのは、落下しつつある航空機から要らない荷物を捨てていくように、企業活動における人件費の負担がそれだけ大きなものであるという認識に基づいているからだ。必要な人だけを抱え込んで、後はアウトソースとして取り替えの利く労働力としてあれば良い。取り替えの利く労働力にまで生活の保障を企業が提供する必要はないし、その方が競争力は間違いなく高まる。

 成長モデルにおいて、そうして雇用は増えない。増えるのはむしろ選抜なのだろう。
 生活保護受給者が過去最多を迎えたというニュースが出されて、生保受給者を抱える私たちの団体も他人事ではないわけだけど、それはもちろん本人の問題を棚上げして考えられるわけではないとしても他方で市場原理に根ざした方策がほとんどうまくいっていないことの現れなのではないかと思う。
 護送船団方式とか年功序列とか、いろいろと批判の多かったかつての日本企業のあり方ではあったけれども、他方でそれはその中で能力はなくても守られている人を抱え込んでいたのかもしれない。そのことに対する反発がもちろん、能力に応じた給与、役職の配分への動機として、今の社会の形を作り上げてきたのだろうけど、でも、その競争にのれない人たちも確かにいるのだ。成長モデル(という言葉を私は漠然としか使えていないけれども)にしたがって社会が動いていく時に、それと歩調を合わせて成長することのできない人たちは確かにいるのだ。
 荷物を軽くした船は高く、速く飛べる。拡大し、成長し、競争力を増し、洗練され、専門性を持つ、そうした「優れた」社会の構築を求めることは理解しやすい。けれどもそれは、不要となった多くの「無能な」人間を生み出すことと表裏一体になっている。セーフティーネットとしての生活保護はその分多くの人を抱え込んみ、働くことは能力のある人に与えられた権利となり、資格となる。軽度の障害を抱え、これ以上複雑になる社会の構造に、そこでの技能の習得に、ついていけない人であっても働ける社会のありようについて私は考えている。
 成長する社会という空想は、その駆動力としての役割を終え、そろそろ幻想化しつつあるということの痛みを私たちは引き受けていく時期なのではないのかとも思う。

 発展ではなく深化を。増殖ではなく包摂を。そうしたことについて考えている。

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コメント


>荷物を軽くした船は高く、速く飛べる

意味がわかりません。「船が飛ぶ」というのは、どういうことですか。「高く」というのは、喫水線のことでしょうか。それならば「低く」ではないのですか。さっぱりわかりません・・・

投稿: クレーマー&クレーマー | 2012/06/30 10:29

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