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2011/10/31

修士論文不要

 何やら文科省が修士課程において、博士課程を目指す大学院生を対象に、修士論文の代わりに「博士論文研究基礎力審査」と呼ばれる、専門分野と関連分野の知識、研究を自力で進める能力を問う筆記試験を課すことにするらしい(リンク)。博士課程に進む場合の入試は実施。修士課程で修了の場合は試験ではなく修士論文を課すことも認める、ということなのだが、何を言っているのかが分からない。

 リンクを張った日経新聞によれば(日経新聞という立場だからかもしれないけど)、今回の省令の改正は以下のような事情かららしい。

修士論文を実質的に不要にするのは広い視野と能力を持った人材を育てるのが狙い。従来の修士課程は論文作成のため早い段階から特定の研究室に所属して研究テーマを絞ることが多く、博士課程を終えても産業界から「専門分野には詳しいが応用が利かず、使いにくい」と評価されてきた。

 よく分からないのだけど、修士課程というのは、専門的な研究を行う知識と能力を育てる場なのではないかと思うし、その実践として修士論文が位置づけられているのだと思うので、そもそもそんなに便利に使える人間が研究機関から出てくると思っているのですか、ということの方が問われるべきことなのではないだろうか。それは学問というもの、そして大学という場の社会からの独立性を考えた時には考えられてしかるべきことなのではないかと思う(ということに、もっと根拠を示すために「大学」の成立についてどこかでまとめて整理する時間を取りたいのだけど、なかなか)。社会のニーズに応える、という言葉は耳障りは良いかもしれないけれども、学問はニーズに応えるものではなく、学問自身のためにあるのであって、社会のニーズは社会でやってもらって大学は学問のために存在するという矜持を、あるいは役割分担をこそ、むしろ言うべきなのではないかと思う。
 仮に有用な人材が欲しいのだという意見が正当なものであるとしても、研究を自力で行う能力を試験で問うくらいなら、自力で研究を行った結果としての修士論文を審査すれば良いわけで、関連する分野の知識も必要だというのであれば口頭試問によってそれを問えば良い話だと思う。むしろ、実際に研究することなしに筆記試験だけでそこを乗り越えようとするやり方で、使える人材が育つとは到底思えないのだけど、そういうことを言い出す人はいなかったのだろうか。

 そうした原理的なことはさておくとしても、大学教員として勤務していて、それほど文科省の動向に詳しくない私としては、こうした議論がいつごろからなされていたのか分からないわけだけれども、それでもこれだけの決定がほとんど私の周りで話に上ることなく、そのニュースが報道されたのが10月、年明けに意見を集めて、3月には改正って、どんなスケジュールだろうとも思う。年度末はどの機関も、省庁も慌ただしく余裕がないわけで、そんな時に改正の作業なんてできるはずもないだろうことを考えれば、実際にはもう大筋で文科省の作成する文章は決まっているのだと思う。議論の余地なくこうした変更がなされることに、違和感を禁じえない。
 一体誰がどういった経緯でそんなことを考えたのか、そうしたことが報道されることを報道機関には期待したいとも思う。

 この文脈にのっているのかどうなのか分からないけど、ついでなのでこのニュースから連想した大学院の問題について書きたい。
 このニュースでは要するに修士論文の執筆が専門分野への閉鎖性を高めている、ということを言っているわけだけど、別に大学院での教育は一つの専門分野だけを学ぶものではない(どの程度を狭いといっているのかもよく分からない)。そもそも一つの専門分野しか学べないのであれば、それはその大学院の構造的な問題であり、修士論文を筆記試験に変えたところでどうにかなるものでもない。大学院で出される課題はそれなりの分野にわたり、その中で自分の専門性を追求していくものなのだ。もしも、狭い専門性に閉じこもっているというのであれば、足りないのはその大学院教育の中での課題なり、習得なりの要求水準なのであって、むしろその教育課程にこそ手を入れるべきなのだと思う。必要なのは過程の深化であって、アウトプットの変数を変えることではない。
 過程の深化を図るということはつまり、自分の専門性を深めるために役に立つはずの関連分野の課題をそれぞれの分野の専門家の話を聴ける程度に習得する、ということであり(役に立つかどうか分からない幅広いことは学部でやれば良い)、それを達成できなければ修士課程を終えられない、より具体的に言えば単位認定がなされないものとする、ということだと思う。私は今の大学院に欠けているのは、修士号を出すこと、あるいは博士号を出すこと、そしてそこに至る過程における、この厳しさであると思う。学生に厳しい課題を課すということは、それを受け持つ教員の側にも厳しさが降りかかることであり、あるいは、あなたには単位を認定できない、ということの責任を引き受けることでもある。それは教員一人、研究科一つの問題ではなく、大学の問題でもあるけれども、残念ながら少子化に伴う学生数の減少にあえぐ大学は、学生からの評判が下がることを恐れて、あるいはその厳しさをアカハラとして訴えられることを恐れて、学問における厳しさを維持することが(大学院でも)出来ない。
 さらに今回の文科省の方針のような変更がなされる事に対して、大学側からの大きな反応はないのではないかと予想するけど、それは文科省からの予算や補助金で多くの大学が経営されているためであって、学問そのものは稼ぎのあるものではないので、様々な形で文科省は大学にお金を下ろしており、それ自体は社会の発展を下支えする研究機関への姿勢としてあり得るものだろうが、同時に地方交付税をめぐる国と地方の関係のように、それによって文科省に逆らわない大学が築かれうるという問題も存在する。そのこと自体学問の自立性を損なっており、文科省の方針に従わないでより自由に研究・教育を行えるはず私学が補助金を頼るという共謀的なあり方をどうするのか、という議論の方が、つまり学生の問題ではなくむしろ(学生を育てられる側として子どもと例えた時の)大人の側の問題の方が取り上げられるべきなのではないかと思うのだ。

 それに対して何か良い案があるかとか、そのために何か行動を起こすのか、と言われると、私の専門は学問とは何かを問うものではなく、私は私の専門性で手一杯なのでそこまではできないが、それでも後から、ほらやっぱりこんなふうに問題になるでしょう、ということを思うのがいやなので、問題だと思うことは問題だと思った時に出来るだけ記しておきたいと思っている。時間が取れれば大学とは何か、ということを学び直してみたいとも思うけど、ひとまず修士論文の代わりに筆記試験を行ったところで、何の効果も上がらないのではないかということを、そうした議論さえ成り立っていないことの問題を、そこにある私たち教員や大学の側の問題を書いておきたいと思う。

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