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2011/08/12

ロンドンの暴動に寄せて

 現地時間8月6日夜に発生したLondonの暴動は、まだ収まる気配を見せない。イギリスの社会制度についても社会の状況についてもほとんど知らないけれども、Bowlbyや対象関係論を生み出し、今でも心理療法の1つの形を作り上げているイギリスでこうした暴動が起きることはただ悲しい。

 twitter上では暴動のまとめのまとめまで出来ていて(こちら)、異なる立場の人からのいくつかの意見を目にすることが出来る。すでにそこに見られるように、異なる立場の間には大きな隔たりがあって、「あいつら」と「俺ら」「私たち」を橋渡しする力は現地ではない日本においてすら弱い。

 今回の暴動のそもそものきっかけは警官が黒人青年を殺したことにあり、それに対する人権団体の抗議デモに対し警察が介入したところにあるわけだけど、現在その主体はすでに人権団体の手を離れchavとかギャングとかであると言われている。今回のことがあるまでこのchavという言葉を知らなかったのだけど、wikipediaによる説明は以下の通り。

「Chav」という名称は「Council Housed And Violent」の略称である。「Council House(カウンシル・ハウス)」とは、イギリス政府が低所得者層に提供している住宅のことであり、チャヴ達は普段これらの住宅に住んでいる場合が多い。服装は、いわゆるストリートファッションをしていることが多く、フードの付いたパーカーやバーバリーなどのブランド物を好んで着用し、ヒップホップとも親和性が高い。たむろしている場所は自宅であるカウンシル・ハウスの周辺や公園、ショッピングセンターなどであり、彼らのようなチャヴが電車などの公共の場所で一般市民に喧嘩を売り、暴言を吐く動画がYoutubeなどに投稿されている。通信手段としてBlackBerryなどスマートフォンのショートメール機能を使用している。

 日本で言えば一頃流行ったチーマーであるとか、海外で言えばストリートギャングが近いという話もあるようだけど、増幅された非行少年の一群だといえるのだろう。

 今回の暴動について、あるいは彼らの存在について何かを言うことは私には出来ないが、このエントリをあげたのは彼らと社会の間にある隔たりが、とりわけ犯罪者と社会との関係について思うところを刺激したからだ。

 今なお続いている暴動について、彼らに近い側からは政府の緊縮財政による支援の縮小から来た暴動だとか、社会階層の中で下層におかれた彼らの存在にも訴えにも社会は耳を貸さなかったためだとかいう声がある一方、それならどうして貧しい子供たちを支援する主人のいる貧しい店が襲われ、彼らが好むものを売っている店が略奪の対象となり、行政機関なりもっとスノッブなところにその矛先が向かわないのかという声がある。彼らの支援のために高い税金を払い、医療、教育、福祉のために財源を割くことを容認し、支援の手を伸ばしていたのに、それを利用しなかったのは自分たちではないかという声も上がっている。奪われたものを奪い返しているだけだ、彼らは明日への希望を失っているのだ、というのが彼らを擁護する側の意見であり、それは略奪の言い訳にならないという当然の反論もある。
 どちらの言い分にもそれなりの背景があるけれども、どちらの言い分にも相手への恐れと怒りしかないところに、分裂が顔をのぞかせている。

 社会的包摂という言葉が使われ始めたのは1990年代で、日本でも最近この言葉を耳にするようになったけれども(ソーシャル・インクルージョンとも言う)、犯罪者の社会復帰もまたその1つに数えられる。彼らの支援をしていて思う社会と犯罪者の分裂は、そのまま今回のイギリスの暴動と同じ構造であるように思うし、だからこそこのエントリを書こうと思ったのだけど、社会的包摂はこうした犯罪者であっても社会の中にとり入れていこうとする運動であり理念である。
 他方で犯罪者の側は自分たちを社会の中に迎え入れようとする動きそのものは歓迎し、感謝をするものの、そこにある手続き、限界、我慢、責任の1つ1つに耐えることが出来ない。そして、そんなことなら別に迎えてくれなくても良いし、と対立の道を選んでいく。社会の側が伸ばした手を彼らは掴み続けることが出来ない。彼らの言い分とすれば、社会は自分たちを理解していないし、そもそも社会的包摂なんて言葉自体が(彼らがそれを知っている可能性はきわめて低いけれども、そういう問題ではなく)上からの目線だということになる。それはある意味で事実だろう。
 社会は個人の上にある。

 刑務所を出て社会で生活する力の無い人たちの支援をするための施設として更生保護施設が設置されたのは昭和25年ごろのようだが、今のところその保護は最大で6ヶ月、累犯者ほど引き受け手がなく、そうでなくとも6ヶ月での立ち直りは難しい。新しい施策として地域生活定着支援センターが設置されつつあるが、これは社会資源との橋渡し役なのであって、しかも福祉制度の利用が中心となるものであり、社会的で、精神的で、場合によっては身体的で、何より行動の病であるところの犯罪に対し、橋渡しの機関に果たせる役割はあまりに少ない。
 当然ながら社会の側が伸ばした手を掴み続けることが出来ないという彼らの問題に対応するだけのキャパシティがそこにはない。その努力を否定するものではないとしても、社会のシステムというものは総じて実態に即さない。
 そのことに別に私は腹を立てないし、むしろそういうものだと思っている。制度の側に、社会の側に確かに落ち度はあると私も思うけれども(これらについては色々と書きたいことがあるけど、今はまだけんかは売らない)、それをもって社会が自分たちを理解してくれないと訴えることは出来ないと私は思う。

 社会は個人を理解しない。
 そうではなくて、個人を理解するのは個人なのだ。

 今回のイギリスの暴動にしてもそうだけれども、彼らの行動の何が最も愚かであるかと言えば(私は犯罪者の社会復帰の支援に携わる者としてあえてそう言いたい)、本来彼らに手を差し伸べる潜在的な可能性を有した隣人に対する攻撃を顕在化させたことであると思う。どんな言い分があろうとも、それを暴力で解決することは少なくともイギリスの文脈において正しくない。人によっては過去の、あるいは現在エジプトやリビアで起きている革命と並べる人がいるけれども、暴力が支配する国における表現としての暴力と、支配としての暴力の先に進もうとしている場所で起きる暴力の持つ意味合いは同じではない。そこには理解する力が内在しているからだ。そうした社会において、社会から排除された(と表現される)人々が社会の中で生活していくことを可能にしているのは、法律によって制定された制度的なものではなく、そこで動き、働き、心を痛めている個人なのだ。彼らはそれを標的にした。
 社会が自分たちを理解しなかった、と言おうと思えば言えるだろう。けれども、社会とは人間関係における第3項なのであって、それは個人と関係を結ばない。それは例えば神であり、法治国家における法を体現し、共有された私でもあなたでもない何かの地位を維持している。それを壁と呼んでもシステムと呼んでも構わない。いずれにしてもそれは個人を理解しない。それは例えば、街灯が物理学的に道を照らすことと同じことである。そこに何を読み込もうと個人の自由であるけれども、街灯は個人に奉仕しない。
 そしてまた逆も然りだ。個人は社会と手を結ばない。社会のシステムや制度がどれ程うまく機能しようとしても、それは街灯の下を歩く個人を認識することは出来ないし、どれ程制度を整えようと、どれだけシステムの不備を修正しようとも、それは個人の多様性に対する柔軟性を保てない。為政者がどのように社会を構築し、それに参加する人々が社会システムを通して誰かを支援することにしたとしても、それは個人を助けることはできない。

 そうではなくて、個人を助けるのは個人なのだ。

 もちろん社会システムの中に含まれた個人が個人を助けることがあるだろう。例えば、私たちの活動は準公的な資金を得て行われているし、その意味で私もまた社会のシステムの一部である。社会はそうして間接的に個人と手を結びうる。けれども「私」はシステムではない。彼らに対し何を思い、どのような身振りで語りかけ、そこにどのような交流を湛えているかは(あるいは抱えきれないでいるか)はシステムの問題ではない。それは私の問題である。私がシステムの一部であり、システムもまた私の一部であることに異論はないのだが、それでも手を伸ばしているのは私である。
 表現を変えれば社会が伸ばす手は個人の手において現実化する。
 個人が社会と出会うことが出来るのはそこにおいてである。個人を理解するのは個人であり、社会はその時、第3項である。それはOgdenがthe analytic thirdとして分析状況を理解しようとした時に立ち現れるような、私たちから生まれ、私たちを規定する第3項なのである。

 社会的包摂について語る時、あるいは今回の暴動について語る時、そしてイギリス政府が作り上げた「小さな政府」(とBBCのポッドキャストではしばしば表現されていた。医療、教育、福祉、移民の問題は常にBBCのニュースの論点であり、若者のアルコール乱用も同様にしばしば問題となっていた。そのたびにDavid Cameronが何かを語っていた)について語る時、そして日本のシステムについて語る時、犯罪者の社会への復帰について語る時、私たちはこの社会と個人を結ぶ個人の存在を忘れてはならない。
 それは何も特別な地位にあるものではない。1人の教師でありうるし、1人の政治家でもありうるし、1人の窓口担当者であるかもしれない。そして何より1人の親であるかもしれない。もしもchavが何かを奪われた人なのだとすれば、そこでまず問題になるのは社会ではなく、むしろ養育において現実化された何かなのだ。それは第二次大戦後にBowlbyやWinnicottが繰り返し主張してきたように、1つの重大な剥奪なのだと思う。社会はその集積の上に議論される必要がある。
 社会と個人をつなぐそうした人々がシステムの内部で、辺縁で、あるいはその外側で行っている、個人的で、ささやかな働きを無視してはいけない。社会が個人を理解しないことを私たちは覚悟しないといけないし、私は誰にとってのつなぐ個人になれるのかということを考えたい。それが恐れと怒りを生み出す分裂への現実的な一歩なのだと思う。

 何だかとりとめのない文章だけど(だからカテゴリーを「夜の手紙」にした)、Londonでの暴動の情報に接しながら、私はそんなことを考えていた。

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