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2011/06/26

attachmentに愛はあるのか

 さて、このエントリの準備をしている間にもtwitterではまた話が進んでいたが(Do contemporary attachment theories dream of love? )、前回のエントリの続きとしてBowlbyははたしてattachmentの文脈で愛を語っていたのか、というあたりについて。なお、@decostatwさんの言う現代的な議論にまでは話は進めていないため、先に一言だけ断っておくと、愛着理論(と私は書きますが)には大きくAinsworth-Mainという2人のMary由来の発達心理学研究の流れと、生涯発達を前提として恋愛過程の一つに愛着を組み入れたHazan & Shaverおよびそれに続くSimposon、Mikulincer等の社会(人格)心理学研究の流れとがあり、前者は基本的にBowlbyを踏襲しているものの、後者は理論的基盤としてBowlbyを参照しても乳幼児期からの連続性やそれとの概念的な同一性をそれほど重視していないように思える。今回はいずれにおいても議論の対象となるattachmentにおける愛の位置づけについて資料的な整理のエントリ。

 私の手元にはPEP(Psychoanalytic Electronic Publishing)による、Bowlbyの3部作の電子データがある。これは改訂がなされる前のそれぞれ1969年版、1973年版、1980年版であるため、現在手に入るものとは1巻、2巻の内容に違いがある。それでも全文検索をかけ、attachmentとloveについて考えるにはひとまず事足りるだろうということで、これを用いて検索をかけた。  検索語は、love(loved、unlovedも含まれる)、loving、lovableの3つ。そう書いてlovelyを忘れたことに気がついた。結果は以下の通り(テーブルの見た目はすぐに手を入れるつもりです)。

検索語地の文引 用その他
 love9209
 loving720
 lovable000
 love332537
 loving623
 lovable200
 love411739
 loving905
 lovable803

 その他の中には、loveの使い方が先行研究にのっとったものなのかBowlby自身のものなのか区別がつかないもの、文章表現としてloveが使われているものなどが含まれている。

 いずれにしても少なくない数のloveが使われており、ざっと見た限りでは母親の子どもへのloveとしても子どもの母親へのloveとしても使われており、それを否定的に扱っているようにも見えなかった(例えば、1巻p.242に"So stable indeed are they as a rule that for babies to love mothers and mothers to love babies is taken for granted as intrinsic to human nature."という文章がある)。またattachmentの向けられる人物は愛情を向けられる人物であることをそれほど違和感なく捉えているようにも思える(同じく1巻p.209に"No form of behaviour is accompanied by tronger feeling than is attachment behaviour. The figures towards whom it is directed are loved and their advent is greeted with joy."という文章がある)。3巻におけるattachmentと喪失の議論においてattachmentの特質を論じる際には、"The formation of a bond is descrived as falling in love, maintaining a bond as loving someone, and losing a partner as grieving over someone."と言う。これらを眺めるとattachmentと名付けられた結びつきには愛情がほぼ同義のものとして組み入れられているのではないかと思えてならない(と言うほど強く主張したいわけでもないのだけど)。ただし、loveは母親から子供へも向けられるとしても(おそらく)attachmentは子どもから母親へという方向性しか持っていないと思う。これについてはattachmentの使われ方すべてを調べたわけではないし、3部作を読み込んだわけではないので確信は持てないが、少なくとも現在の理解としてはそうであると言える。
 そう考えると母子関係におけるloveはattachmentに含まれるものであり、成人におけるloveにはattachmentが含まれる、と整理するのがわりとすっきりしているのではないかと思う。そして、そう書いてから改めて気付いたのだけど、親子のloveと成人のloveとが英語の言語的範疇としてどのように重なり、どのように異なるのかを議論するところから、attachmentの2つの流れについて考えることができるのかもしれないとも思う。あるいはloveの意味が転換するところはどこで、それはどのようにして起こっているのか、その中でattachmentはどのように作用しているのか、と考えてみても良いのかもしれないと思ったりもする。

 ちなみにpsypubさんから質問のあったAAIにおけるloveの位置づけだけれども、AAIのスコアリングに関わるものとしてよく知られた語りの様式の方ではなく、語りの内容のスコアリングにおいてloveを拾うコーディングがある。語りの内容においてとらえられるのはloving、rejection、involving/reversal、pressure to achieve(これはおそらく学校恐怖の文脈でBowlbyが言ったことに由来するのかもしれないと今回読みながら思った)、otherであり、これらは親の子ども(だった語り手)への態度、あるいは親との関係に関して行われるコーディングである。lovingは物理的な損失よりも心理的ケアを優先する、安心させるための努力を行う、ハグする、膝に乗せる、などに付けられる。
 ここでのloveはやはり基本的にはネガティブ情動の制御にかかわるものとして定義され、したがって危険や不安のサインに対いてどのくらい敏感に反応した親の行動が描かれているか、に則ってスコアされる(ネガティブ情動の制御にかかわるものを下方制御down regulationと呼んだりもする)。その一方で最後のほうに挙げたハグや膝に乗せることは、ネガティブ情動下でなくともlovingとしてコーディングされ、そこにいくらかのあいまいさは残っているように思うけれども、それでも単なるjoyやhappyやdelightなどではないとされる。

 これについて、でもねえ、と思うのはBowlbyが定め、発達心理学者は今でも踏襲しているattachment behaviour(とイギリス英語綴りで書いてみる)の種類の1つに、smileが含まれていることだ。smileは別にネガティブ情動下で生起するものではなく、むしろsmileに対する肯定的な情動反応がない時にネガティブ情動を引き起こすことになるのであって、下方制御を強調しながら、これが含まれていることの是非はどうなのだろうと前から不思議に思っているのだ。そしてもう少し現実的に言ったときに、ネガティブ情動下では敏感に応答した同じ人物が、喜びを共有し、一緒に楽しもうとした時に無反応であることは、それでもsecureな関係を築くことにつながりうるのだろうか、という、そんなにネガティブ情動下での話「だけ」を強調できるのかしら、という疑問があって、実のところこれはまだ愛着研究者の誰からもちゃんと答えてもらえたことがない疑問なのだ。
 そういうことも含めて、私はattachmentをネガティブ情動の制御だけに限定し、そこから積極的に愛を排除する気にはなれないでいる。

 もう1つpsypubさんから頂いた疑問で、甘えについてなのだけど、甘えの議論は日本語の中でも錯綜しているところがあって、なかなか取り扱いにくいのだけど、確かにBalintのprimary loveとかFerenzciのpassive object loveとかとよく似た概念であるとされる(し、土居健郎自身そう言っていたような)。で、Winnicottとは同時代の分析家であり、乳幼児に関わっていたこともあって相互に言及しあう時期があったのだけど、BalintやFerenzciについては、精神分析ではFreudは認めづらかったみたいだけどだんだん現実の母親との分離や喪失に注目していった歴史がありますよね、という流れの中で触れられるだけだと思うし、Fonagyの「愛着理論と精神分析」においてもそのような扱いであったと思う。Fonagyはむしろ愛着理論に近いしいものとしてEriksonを評価しているのだけど、そこには自我心理学者としての同一性が働いているのかもしれない。いずれにしても、Balintらとの関連は詳しく検討されてはいないし、甘えとの関連もそうであると思う。
 ここでさらっと甘えとの異同について考えてみると、少なくとも子から親へという方向性の一致はあるだろうと思うし、それが基本的な情動的体験であるとするところにも両者の一致は見られるだろう。けれども、甘えは基本的に情動的体験であるのに対し、attachmentは基本的には生物学的な傾性であり、行動も情動もいわば(Bion的に表現すれば)その現実化である点に違いがあると思う。また、attachmentには生物学的機能として生存が想定され、そのための安全の確保が設定目標とされるのに対して、甘えはやはり情動的体験としての甘い感覚を味わうことを意味しているのだと思う(求めるとか与えるとかはその点において二次的な重要性しか持たないのではないかとも思う。よく分からないけど)。

 だんだん何の話をしているのか分からなくなってきたけれども、繰り返しになるけどattachmentに愛は含まれると私は思うし、だからといって愛がattachmentなわけでもなく、高度に抽象化された心的、あるいは人間的次元の概念(愛)と、生物学的機能を有する生得的傾性としての概念(attachment)とを容易に混同するようなことはしない方が良いと思う。そして、愛に万能性があるという発想からは離れた方が良いと思うし、愛と呼ぶことで実際のところ何を意味しているのかについては自覚的であった方が良いと私は思う。
 それでもattachmentから愛は排除されるべきではないのではないかな、としつこく思っているのだけれども。

 何となく下方制御(ネガティブ情動の制御)と愛情の話とをごっちゃにしてしまった気はするけど、また何か思うところがあれば続きのエントリを上げたいと思う(日本語における愛と愛情についてとか、愛の範疇の歴史的変遷とかも含めて)。

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コメント

またしてもゴツいエントリ,まこと感服です。

こうなると,attachmentからloveを排除したがる傾性が気になりつつも,より前向きに,smileの話,面白いと思いました。

そして全文検索,お疲れ様です。bondとattachmentを区別して使っている以上,やはりそこになんらかのsomethingをのせているように思えます。行動って純物理的な現象ではないですもんね。

どうしても議論になると,極論(loveである/loveでない)になってしまうので,役割的な振る舞いが求められてしまいますが,また「現代的な解釈」が限定されたものとされてしまいがちですが,それらも含めて愛着理論のヴァリエーションなのかなと思いました(というか,僕にはnocteさんが古典的な解釈者であるように思えないので)。

なお,甘えについては,ちょっと思いつきすぎて,申し訳ありませんでした。情緒的体験とすれば,それを排除したがる方向性とはあんまり相性がよくなさそうですね。

などなど,お礼方がた,興味は尽きないところですが,とりあえず。

投稿: psypub | 2011/06/27 12:47

affection, affectionate, という言葉がloveと等価で使われてるよ~。 be fond of とか、も。英語の論文は、同じ段落で同じ言葉を使うのは「美しくない」ので、loveもそれなりに言い換えられております。
 参考までに。 

投稿: gaga | 2011/07/02 19:12

>psypubさん

 どうもありがとうございます。
 発達よりの人、臨床よりの人でattachment理論に関わっている人は、Bowlby以来のattachmentを時代的な変化を経たものとは見なしていないのではないかと思っていまして、社会(人格)心理の領域での理論と調査の解離の危うさをのぞけば、ある意味みんな古典的にやっているのではないかと思っているのですが、どうなのでしょうね。ちょっと注意して見てみたいと思います。

>gagaさん

 コメントありがとうございます。確かにloveと同等の単語もあるでしょうね。ただ、発端がloveが含まれていない、という話であったので、直接的に定量化してみようと思いまして。本当は全部通して読み直さないといけないのでしょうけど、それをするならそれで1つの研究になりそうですし、エントリには向かないかなと思ったりしました。
 というか、誰かこのテーマで修論を書かないでしょうかね。悪くないテーマであると思うのですけど。

投稿: nocte | 2011/07/03 01:08

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