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2011/05/12

原発問題と見るなの禁止 2

 前回のエントリをあげてから、さらに時間が経ち、福島第一原発の制御しきれない状態が続いていること、政府が発表する放射能や放射線料の数値が必ずしも適切な測定に基づくものではないこと、それどころか避難所の生活はいまだ危機的な状態にあることは、すでに主要なメディアからは消えていこうとしている。正直、そのような状態でこのエントリを書き上げることにどんな意味があるのだろうかと思ったけれども、私たちの社会が何故そのようなことになっているのかを考えなければ、私がこの時代にいた意味が、少なくとも私にとってはなくなってしまうと思うと、思うところを書き記すことだけはしておきたいと思う。目に見えない危機はすでに関東を覆っているのだ。

 前回のエントリで、宇宙戦艦ヤマトについて書いた。自己犠牲と母の手引きについて書いたけれども、女の助けのもとで男が何かを成し遂げる物語は日本には数多く存在し、それは時に妻と夫の物語りであり、時に母と子の物語である(娘に助けられる父の物語を私はあまり知らない)。

 それは以前にもエントリをあげた国譲りの神話においてすでに見られる構造で、おそらくそれだけ古くから母は子を助けてきたのだろう。国譲りとは国つ神から天つ神への地上の支配の移行の物語なのだけれども、地上の国造りを終えたのはオオクニヌシノミコトと呼ばれる男神である。その完成を見た段階で天つ神であるアマテラスオオミカミと呼ばれる女神が自分の息子への国譲りをオオクニヌシに迫り、いくばくかの国つ神側の抵抗の後、結局大きな争いのないままに国は譲られ、高天原に天孫ニニギが降臨する。オオクニヌシは出雲にこもり、そうして天つ神の直系としての天皇の地位が確立される、という古事記の神話の終わりの部分である。
 ここに見られるように一国の権限委譲は母の手によって行われ、そこには欧米のように戦う男達の姿がほとんど見られない。どちらが良いということではなく、私たちの国はおそらくそういう国なのだ。後に武士が出てくると、そこでは数多くの英雄が活躍をするものの(そしてある種の中高年男性は戦国時代の武将を大変好むけれども)、彼らも天皇には取って代わらない。むしろその血筋と歴史とは、御所の中に保存されており、それは今でも続いている。母の手による平和的な解決が古い記憶として保存されており、それは不可侵である。

 言うまでもなく、そこに秘密も隠される。先日イギリス王室のウィリアム王子が結婚したけれども、王子の母であるダイアナ妃はパパラッチに追いかけられて事故死した。日本で皇室の誰かがそんな目に遭うなんて考えられるだろうか?
 そこには触れてはならないタブーが存在している(天皇家のタブーという話ではなく)。

 それは母にまつわる秘密であると私は思う。
 話を古事記に戻してみる。国譲りに登場するオオクニヌシノは、実のところアマテラスと時を同じくして生まれたスサノオノミコトと呼ばれる男神の子孫にあたるのだが、そのスサノオは自らの狼藉ゆえに一度アマテラスによって天つ国を追い出されている。放浪の果てに出雲に辿り着く間に、ヤマタノオロチを退治し、妻をめとり、しだいに乱暴な子どもから成熟した大人への道を辿っている。オオクニヌシはその子孫なのである。こうした歴史を踏まえて国譲りの推移を眺めると、そこにスサノオ−オオクニヌシ−子の系譜に対するアマテラス−母の国取り=去勢を見て取ることが出来る。国は単に母の手によって息子に与えられるだけではなく、そもそも息子の国が母によって奪われてもいるのである。けれどもその事実は地上の支配を女神ではなく男神に委ねることで覆い隠されている。そこには去勢と献身の2つが同時に存在している。
 古事記の話を続けると、それはそもそもの始まりにおいて生じているのである。日本における最初のカップルであるイザナギとイザナミは一度結婚に失敗し、奇形の子どもばかりを産んでいるのだが、それは女であるイザナミから結婚を誘ったためであるとされている。国の始まりが結婚の失敗から成る歴史を持つ国が他にあるのだろうかと思うけど、でも日本はそういう国なのだろう。ここに示されているように、私たちはおそらく原初的に女の能動性による男の去勢を隠し持った民族なのだ。と同時に、女が能動的であることを良しとしない国でもあり、イザナミはその後多くの神を生み、最後は火の神を生んで死ぬ。そこには献身的で自己犠牲的な妻としての姿が描かれている。

 私はこれらが甘えの構造なのだと思っている。
 甘えとは、単に母子の依存や一体に関する情緒的体験であるだけではなく、あるいは母から子への無償の、献身的な愛の形を言うのではなく、その背後に甘くない現実を隠し持ち、むしろ甘くない現実を見せないための装置として、構造として機能するものなのだと思う。龍の子太郎などのように目玉を与えて赤子を育てる献身的な母親と甘えの体験は、同時に母親の剥奪を背後に抱えこんでいる。甘えとは抑圧であることを悟らせない抑圧であり、それによって成熟を妨げてもいるのである。

 宇宙戦艦ヤマトにおいてヤマトの子らは女王スターシャの導きによってデスラーを打ち破り、コスモクリーナーDを手にするのだけど、それが同時に自らを愛するデスラーへのスターシャによる攻撃となっていることにはほとんど気付かれない。古代がデスラーに打ち勝つ物語に思春期的な成長を見ることが出来るとはいえ、スターシャをも失う古代たちにとって、その両親カップルの間で起きていることは触れることの出来ない聖域なのである(実際には、古代の兄であることを暗示するキャプテン・ハーロックと共にスターシャは滅びゆくイスカンダルを離れ、そこに思春期的達成が示されているようでもあるものの、そこには偉大なデスラーへの罪悪感もまたある)。

 それは、原光景に関する西洋と日本の違いにも見られるものであるように思える。
 西洋の文化において両親の寝室は子どもの寝室から隔てられ、ドラマや英語でよく見られるように、親は子どもを寝かしつけ、ドアを閉め、あるいは少しだけ開けた状態で、自分の寝室へと戻って行く。その結果一人残された子どもは両親の寝室で何が起きているかについて想像する、というのが原光景についての理解であり、それは時に魅惑的で、時に恐ろしいものとなる。けれどもそこに想像の余地があるだけに、子どもは空想において両親の間に割って入ることが出来る。空想の世界において子どもは世界の王様である。
 それに対して両親と子どもの寝室が分かれていない日本の文化においては、原光景はすぐそこにある。浮世絵などを見ると、子どもの前で両親の性交が行われていたりして、それはすぐそこにあるもので、にもかかわらずと言うべきか、そのためにと言うべきか、見てはならないものとなり、知ってはならないこととなるのだろう。そうして「見るな」の禁止が課され、他方でその禁止と引き換えに、母親の献身的な愛も注がれるのだろう。そこには禁止と甘えとが同時に存在しており、時折浮世絵に描かれるように、それらはいずれもは母親によって取り仕切られている。想像の余地はなく、具体的で感覚的な世界において両親の関係について思考することはない。世界の王様になることは叶わず、結果として日本人は自分の利益を最大化するようには育たない(そのために、災害時に暴動が起きないのだ)。ゲームやアニメといった想像力に対する日本の特異性においてこれは示唆的である。

 私たちはそのように想像の世界における英雄としての両親カップルへの侵入を許されていない民族なのだと思う。それは理想化された母の悪さを暴き出し、自らの去勢の不安に直面することになる。甘えによって見るなの禁止が成立し、成熟は献身と自己犠牲の内在化を促す。

 私たちはそのようにして、原発問題に「見るな」の禁止を課しているのだと私は思う。英雄的な働きは自己犠牲的な作業員に帰属され、問題の本質へと侵入することは許されていない。安全神話は今でも機能し、メディアからは危機感がなくなり、情報は隠され、そうして見せかけの安全に甘やかされている。それはまた、そうであって欲しいと願う市民の思いであり、切実な願いであると同時に、子どもであろうと留まり続ける点において幼児的な姿でもある。問題について考えないことで自然と犠牲者への道を歩み、そのようにして自己犠牲を現実化してもいる。
 それはまた両親カップルを不可侵なものとし続けている。
 そこでは一体何が起きているのだろうか。
 古事記におけるイザナギとイザナミの2度目の結婚に見られたように、あるいはニニギの降臨のように、そこでは男に対する女の優位性が逆転され、男への権利が委譲されたところで「見るな」の禁止が再び成立する。献身や去勢は抑圧を被り、否認され、なかったことになされている。それが権力の座において起きていることなのだろう。背後に去勢を隠し持ち、したがって英雄としての責任を引き受ける強さのないままに、彼らは地上の支配を獲得している。それは幼児的なままの姿なのであり、しかし利権にからむ有力者の幼児性は市民におけるそれと共謀する。お上と市民の間には不可侵の分裂があるが、しかし同じ構造がそれらを結びつけている。それはまるでイドから超自我が生まれるように、である。

 私たちがとるべき道は何だろう、と問うと同時に、母はどこにいるのだろう、とも思う。

 戦後の日本において権利の移譲を成り立たせてきたのは、言うまでもなくアメリカである。昔の日本においては中国であったかもしれない。もしかしたら原発の利権にアメリカがからんできたのかもしれない。そのアメリカが今回も見えざる手を下すのを待つのだろうか(平田オリザ内閣官房参与の失言が、実は事実であるとすれば、それはすでに始まっているのかもしれない)? 私たちは否認を超えて、両親カップルの間へと入って行くべきなのだろうか(おそらくそれはここで考えてきたことが正しいとすれば民族的な自我過程に反することであり、無理がある)? 少なくともメルトダウンは起こり、東京にも放射性物質は降り注ぎ、このままでは水と食べ物も汚染されていく。プロジェクト・ヤマトについて考える時、何かを進めなければいけないとして、私たちは成熟において自己犠牲を内在化せざるを得ないとしたら、自己犠牲を原発の作業員から引き離し、選ばれた人による両親カップルへと侵入するところに割り当てることが最適解なのかもしれない。その意味で昨日の「『参議院行政監視 委員会』 行政監視、行政評価及び行政に対する苦情に関する調査 (原発事故と行政監視システムの在り方に関する件)」の動きが、とりわけ小出助教の存在が重要になってくるのかもしれない。
 あるいは何か他に私たちに出来ることがあるのだろうか。
 私に出来ることがあるのだろうか。

 少なくとも関東が汚染されていることに目をつぶり、私たちの幼児性と甘えに共謀し、「見るな」の禁止に盲従はしたくない。それは大学に勤めるものとしての倫理でもあると思う。

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コメント

元、精神分析学会と精神分析協会の構成員です。
福島浜道りには、震災以後何回も足を運んでいますが、この前の日曜日は川内村に行ってきました。
視ると聞くとでは大違いです。
日本人の特徴は研究されて権力などが利用していますが、大衆は、そのことに気がついていません。
    ----------------------------------
       情報管理から情報共有へ
http://ux.nu/4Gy5h  
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投稿: やぶい | 2013/07/19 09:17

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