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2011/05/25

attachmentの訳について

 しばらく原発の問題を追いかけていた間に、attachmentの訳語についての議論がtwitter上でなされていて(リンク)、おそらく彼/彼女らは私よりも若い世代ではないかと勝手に思っているのですが、いろいろと考えて立派なものだなと思ったりしました。すっかり乗り遅れた感があるのですが、追いかけてコメントをしようかと思います。

 私なりに論点をまとめてみると、そこで話されていたことは次のようになるのかなと思います。
1.attachmentが愛着と訳されているけど、そもそもBowlbyは愛(love)を含意していたのか
2.たとえBowlbyがそうであったとしても、現在の理解として愛を含むのか
3.いずれにしても愛着と訳されることで臨床的に愛が強調され、しかもそれがしばしば万能的に使われてしまうのはどうなのよ
 (もしも見落としがあったらご指摘ください)

 3については、これはどんな時にも起こりえることで、転移や逆転移、行動化、境界例、自己愛など、精神分析由来の概念だっていつでも正しく使われるわけではないので、他にも探せばきっといろいろあるでしょうし、そうした(理論的な観点から見た)誤用はある程度仕方がないのではないかと私は思っています。一口に臨床家と言っても、理論と実践の咀嚼に努めている人もいれば、そうではない人もいて、後者はもちろん問題ではあるし、それで良いというわけではないとしても、現実問題としてみんながみんなしっかりとした理論的基盤を持って話をするということはあり得ないだろうと思うので、そのためにスーパービジョンや研修や講演があるのであって、そうした機会を通じての地道な啓蒙の中で、あんまりこれは簡単に使って良いものではなさそうだぞ、と思ってもらえれば良いのではないかなと思ったりしています。
 とはいえ、attachmentとは何か、という問いとその理解に、訳語の側面からアプローチしようとすることは1つの方法論であるとも思います。言葉が含む連想の陰影は思考過程に影響し続けるでしょうから(言葉の響きに頼ることを科学的でないと思う人もいるかもしれませんが、でも人間の思考過程自体が科学的ではないので仕方ないのではないでしょうか、と私は思います)。しかしながら、それは万能ではなく(愛が万能ではないように、愛が含まれないこともまた万能ではないでしょうから)、仮にアタッチメントと訳されれば共通の理解が持たれるかというと、じゃあ今度はどれ位の人がその概念を使って臨床を語るのか、という問題にもつながるように思いますし、例えばお母さん達がアタッチメントという言葉を使って子育てを語ることを私はうまく想像できません。カタカナと平仮名や漢字との隔たりは想像以上に大きいのではないかと私は思うのです(同じ種類の問題として、mentalizationをメンタライゼーションと訳すことにも私は違和感を覚えます)。
 むしろ地道な啓蒙の作業の中にこそ、一般に考えられている視点(例えば愛情)では十分ではないところ、それ以上の何かが求められるところがあることを伝えられる瞬間が存在しているように思います。愛を強調することに腹立たしさを感じる気持ちは分かりますが、その怒りは無知への攻撃であり、攻撃された無知が理解に変わるかというと、それよりも抵抗を強める可能性の方が高いのではないかということを考えると、繰り返しattachmentとは何か、ということを伝える努力の方に意味があるように思えるのです。それと理論的には誤用とはいえ、そこに愛が強調されるのは日本の文化を反映してもいるのでしょうから、それを理論的観点からのみ間違っていると言ってしまうと、事態に関わろうとしている日本人の日本人としての努力を否定することにもなりかねず、それはそれでどうなのだろうと思います。誤用への批判は、その意味で日本における適用可能性を失うことにもなりかねないし、何より西洋におけるattachmentと日本におけるそのあたりの何かの対話を失わせることにつながるかもしれません。理論的蓄積には多くの努力と知恵とが費やされてきたとはいえ、それが「普通」の感覚にいつでも優位かというとそうでもないでしょうし、アンチテーゼ的な意味で誤用に耳を傾けることを私は好んでいます。

 そうした誤用への姿勢があるとは言え、それでも理論の場においてattachmentとは何かを明確にしておくことは、対話への準備でもあり、また専門家としての自恃でもあるので、その議論は十分になされて当然のところだろうと思います。今、手元にBowlbyの著作がないため、すぐに確認は出来ないのですが、Bowlbyがしばしば引用し、また私たちもしばしばともに論じるHarlowからこれについて考え始めると、Harlowがattachmentをloveと同義に捉えていることがまず確認されます。Harlowの有名な実験を記した論文は、そのタイトルをThe nature of Loveと言い、その中で彼は次のように述べて論を始めます。

The initial love responses of the human being are those made by the infant to the mother or some mother surrogate. From this intimate attachment of the child to the mother, multiple learned and generalized affectional responses are formed.

 1958年のこの論文ですでにHarlowはBowlbyを他の精神分析家から区別し、その研究に注目をしていますが、Bowlby自身がそうしてHarlowによって引用されることを否定的に受け取っていた記憶はありませんし、自分とHarlowのattachmentや母子の関係に関する視点は異なる、ということをことさら強調したようにも記憶していないので、おそらくBowlbyもこうしたHarlowの立場に沿って養育者と子どもの関係を捉えていたのではないでしょうか。仮に明言されていなかったとしても(何気に私は全文を英語のデジタルデータで持っていまして、今度検索をかけてみます>psypubさん)、したがってBowlbyの言うattachmentには愛が含まれると考える方が自然であるように思います。
 もちろんBowlbyは子どもが養育者に向けるattachmentを生得的な行動システムの1つとして想定し、そこでのattachment behaviourを制御理論に基づいた目標修正的なものとして記述し、それに与る心的過程を情報処理理論によって説明し、これらのattachment systemの生物学的機能を生存のためとしている点において、愛よりもsecurityを達成されるべきものとしていたことは確かなのでしょう。けれども、他方でattachmentとはaffectional bondであると言うように、子どもから養育者への特異的な結びつきがある時に、そこに愛情の陰影があることを否定しきれないようにも思えます。と言うよりもむしろ、生得的行動システムとしてのattachmentと愛や愛情の絆という情緒的側面とが併存することに、私は別に何の疑問も抱かないため、attachmentには愛が含まれないと強く主張しなければならない理由がよく分からないのです。

 問題はむしろ、質なのであって、attachmentは強いか弱いかではなくどのような質のattachmentであるかを考えるとBowlbyが主張するように、愛情もまた強いか弱いかではなくどのような質の愛情なのかという視点から考えるべきだ、ということなのではないでしょうか。と同時に、愛情とは高度に抽象化された概念であり(なぜそうなのかにも関心は向きますが)、それは様々な知覚、認知、情動、願望、記憶、表象、行動、その他の要素から成り立つわけで、それらがどのように作用しあっているのか、という水準で考える必要もあるのでしょう。臨床において愛を強調する時の万能性は、こうした細かな諸要素の作用や関連を抜きにして、いわば手抜きをして用いられていることによるのであって、attachmentに愛が含まれるかどうかということの問題ではないように思うのです。

 でも、確かにattachment研究者はattachment概念から愛を取り除きたがりますね。それは実感としてそう思います。現在訳語としてアタッチメントを意識して使う人が増えていますが、それは確かに愛情との混同を避けるためのようでして、海外の研究者と話す時にもattachmentはネガティブ情動の制御に関わるということを強調しがちであったりします(私が話すのは主に発達心理学系の人が多いのですが)。それはそれで高度に抽象化された概念を用いることへの行き過ぎた反応のようにも思えますし、でもみんながそう思うということは私の感覚がずれているのかもしれませんし、話が逸れるようなそうでもないような気もするのですが、ネガティブ情動の制御にのみattachmentの機能を制限することについてもいろいろと思うところがあるのですが、とりあえずBowlbyにもう一度目を通してみてから続きを書いてみたいと思いますので、ひとまずここまでにしたいと思います。

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コメント

恥ずかしながらいま気づきまして(申し訳ありません),感激しつつ,興味深く読みました。

ひとつお聞きしてよければ,AAIの文脈でも(臨床的に,といって良いんでしょうか?),愛を取除く傾向にあるのかということで,これはnocteさんにしかお聞きできないなと思い,またお時間のある時にでも。

投稿: psypub | 2011/06/14 18:40

こちらは思いつきで。

愛着の話,日本だと,「甘え」の話にもなりうるかなと思ったのですが,そこからの連想で,バリントとボウルビィって,関係が語られたりすることあるんでしょうか? ウィニコットとはよく語られてる気がします。

いつもいつも教えていただくばかりで申し訳ありません。

投稿: psypub | 2011/06/14 18:58

たびたびすみません。nocteさんのエントリを受けて,また少し考えてみました。

「Do contemporary attachment theories dream of love?」(http://togetter.com/li/150044)

僕としては,ソモソモ論が気になるな,と改めて。

投稿: psypub | 2011/06/17 18:37

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