« 東北地方太平洋沖地震 | トップページ | 原発問題と見るなの禁止 2 »

2011/04/30

原発問題と見るなの禁止 1

 震災から1か月が過ぎ(と表現して良いのか分からないけど。余震は今でも続いているし)、本来なら復旧・復興へ向けた動きが出る頃だけど、原発問題があって地方も中央も行政機関は混乱しているようだ。にも関わらず、というべきなのか、そうだとしても、と言うべきなのか、何事もないように日常生活は営まれ、テレビなどで震災の話題を見ることも少なくなった。けれども、実際のところ状況は予断を許さない。特に原発周辺の子どもたちの被曝量についてはもっと大きな声があげられてしかるべきであると私は思うし、そうした政府の対応への抗議のために内閣官房参与が辞任した(別のときには大きく叩かれたことはあるけれども、大手のメディアの中では毎日新聞が比較的早い段階で原発の問題について報道し始めたこともあってリンクは毎日新聞)ということの意味は決して小さくはないと思う。

 私は別にこのエントリにおいて政府を批判しようとも思わないし、子どもたちを避難させるべきだと主張しようとも思わない。原発利権の問題を取り上げてそれを糾弾しようとも思わない。それでも原発を巡る問題は昔から言われていたことではあったわけだし、安全対策とその監視の機能を社会が担いきれていなかったということは日本における1つの事実なのであり、今でも少なくとも子どもたちが危険にさらされていることはきちんと訴えられるべき事実であると思う。それでもなお、このエントリの趣旨はそれではない。それについてはもっと詳しい情報と分析力を持った専門家がいるし、そうした情報も比較的多くある。
 むしろ、にも関らずなぜこのような状況に至っているのだろうか、ということを考えるのがこのエントリの目的である。

 心の専門家と呼ばれる仕事に従事し、それについて教える立場にある者として今回の震災に対して何をすべきか考えたときに、もちろん最初に考え付いたのは災害支援であった。東京で行われた研修会にも参加したし、被災地に向かう医師に付いて現地に行くことも考えた。心理臨床学会が行っている活動に参加することも考えたけれども、避難所生活が長引き、原発の問題があるところで行える心理的支援はそう多くない。心理的支援によって危機が回避されるのであればそれは支援の意味があるだろうけれども、そうではない外的危機の中で心理的な支援をはかることにどれくらい意味があるだろうかということを考える。それはもちろん現地で努力している同業者を非難するものではないけれども、そこにこそ行政の力が注がれるべきであり、物理的安全が確保された上で心理的安定を図る必要があるのではないかと思うのだ。
 もしも、原発の問題がなければ状況は違っていただろうと思う。その意味で今回の福島第一原発の与えた影響は計り知れない(実際にどの程度の影響が出るのかを予測できないという意味で、文字通り計り知れない)。

 なぜこのような状況に至っているのだろうか。

 私が原発の問題について考えるようになったのは、福島第一原発の1号機、3号機が相次いで爆発し、その後高いのか安いのか分からない金額で作業員の募集があったときからだ。同時に、大きな災害にも関わらず日本人が落ち着いて行動しているという海外からの反応についても考えていた。なぜ日本人は冷静に行動できるのだろうかと。
 作業員募集の情報に接した時に、最初に私が思いついたのは、その作業に「プロジェクト・ヤマト」とか「プロジェクト・イスカンダル」とかの名前を付けたら良いのにということだった。不謹慎であることを自覚したけれども、想像力は自由であるべきだと私は思っているし、不謹慎さが創造性を奪う危険性について思うところがないわけでもなかったこともあって、その翼の広がるに任せて、日本の置かれた状況について考えていた。

 宇宙戦艦ヤマトという映像作品がある。
 1974年にアニメーションとして製作され、1977年の劇場公開を経て若者のアニメ文化の端緒を開いた作品である。ヤマトはそこに出てくる宇宙戦艦の名前で、言うまでもなく第二次世界大戦で製造され、戦闘に加わることなく沈没した戦艦大和のそれである。イスカンダルはヤマトが向かう惑星の名前である。
 デスラー総統率いる惑星ガミラスからの攻撃によって放射能に汚染され、地表に住めなくなっていた地球人は、ある日惑星イスカンダルからの通信カプセルを入手、イスカンダルの女王スターシャからの放射能を除去できるコスモクリーナーDの設計図を取りに来てほしいというメッセージを受け取る。カプセルには波動エンジンの設計図があり、それによって沈没していた大和はヤマトとして甦ることになる。古代進ら若者が乗組員としてヤマトに乗り込み、一路イスカンダルへと急ぐ。当然のことながらデスラー総統率いるガミラス艦隊との衝突が繰り返されるが、これを波動砲によって退け、ワープ航法を繰り返し、最後にヤマトがたどり着いたのは14万8千光年離れた大マゼラン星雲にある惑星イスカンダルだった。しかしそこで、古代らはイスカンダルからの攻撃を受ける。戸惑う彼らが目にしたのは、イスカンダルがガミラスとの双子星であるという事実。攻撃はガミラス星からなされていた。惑星ガミラスに引きずり込まれ、デスラーとの死闘を繰り広げた古代らは、これを撃破し、ガミラス文明を滅ぼす。勝利しながらも自らの行いを悔いる中で、古代が言う。「行こう、イスカンダルへ。他にどうしようもないじゃないか」。ガミラスもイスカンダルも、末期を迎えた星であり、緩慢な死を迎えようとしていた。イスカンダルに降り立った古代らは、スターシャからコスモクリーナーDの設計図を受け取り、滅びゆくイスカンダルを離れる。地球への帰路、待ち受けたデスラーの最後の白兵戦を、スターシャから譲り受けた設計図によって完成させたコスモクリーナーDと古代の恋人雪の生命をかけた働きで退け、勝利したヤマトは地球へと帰っていく。
 そういったヤマトのストーリーを思い返しながら、あるいはコミック文庫化されたヤマトを読み返しながら、私の中にあるいくつかの感覚が次第にまとまりをもつのを待っていたのだけど、そこで注意を惹かれたのは、ガミラスとスターシャに結合両親像が読み取れることであり、同時に滅びの美学が存することであった。ヤマト、999、ガンダムと続くアニメ作品は思春期・青年期の、特に男子の心性をよく代表しているけれども、ひと組のカップルとしてのデスラーとスターシャを考えたときに、ガミラスを滅ぼし、イスカンダルへと降り立つヤマトの子らを思い描くと、必然的にそこにはエディプスの構造が浮かび上がる(もちろん精神分析的な文脈の中で、ということだけど)。けれども、対立する存在としての父親を殺害するだけのオイディプスの物語とは異なり、ヤマトにとってデスラーは「偉大な」デスラー総統であり、ガミラス文明を滅ぼしたヤマトに残されるのは自らの行いの罪深さである。例えばそれは、アルマゲドンに描かれる英雄の姿と比べた時の、古代らが背負う悲しみという点に浮かび上がる、1つの文化的な差異である。そして、そこには波動エンジンを与え、コスモクリーナーDを与えようとする母がいるのであって、自らの知恵でスフィンクスと対峙するオイディプスに比べると、日本の英雄としての子どもは母に助けられ、母に導かれている。それは西洋的なエディプスの物語とは大きく異なっている。

 原発の作業に取り組むことは自己犠牲である。それはニュースで報道される作業員のインタビューでも良く分かる。報道がいつも正しいわけではないけれども、仮にそれが事実とは異なるとしても、あるいは事実と異なるのだとすればなおさら、自己犠牲の価値は日本社会において共有された空想であり、錯覚である。それは自己犠牲的な両親への同一化であり、とりわけ母の(スターシャの、そして雪の)それである。英雄は母に手助けされている。

|

« 東北地方太平洋沖地震 | トップページ | 原発問題と見るなの禁止 2 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/88325/51530326

この記事へのトラックバック一覧です: 原発問題と見るなの禁止 1:

« 東北地方太平洋沖地震 | トップページ | 原発問題と見るなの禁止 2 »