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2011/02/15

高齢・障害出所者への関心

 NPO法人を立ち上げ、認証が降りてから2ヵ月が経とうとしている。その間に新聞やテレビの取材の申込がいくつかあり、そのうちの1つには私も立ち会った。いずれもある程度の時間をかけた取材となるとのことですぐにメディアに載るわけではないものの、この領域も比較的関心を引くものではあるし、何か行動を起こすとそれに関心を持ってくれる人もいるのだなと思う。

 その話の中で、どういう経緯でそうした記者たちがこの領域に関心を持ったのかを尋ねてみたりしたのだけど、どうやら高齢者の出所者たちの問題が発端であるらしい。確かに高齢者による犯罪は増加し、全国の刑務所のうち、何ヶ所かに高齢者専用の舎房が建てられ、当然ながら出所する高齢者の増加も問題となりつつある。
 出所する人が高齢であるということは、家族や親戚や友人にも高齢者の割合が多くなるということだし、それはすでに他界している人が多いということを意味する。つまり出所しても帰住先がないということがそうめずらしいことではないということだ。この人たちの生活をどうするか、仕事もできない、人間関係も持たない、そういう人たちが生活を維持し、再犯に至らないために何が必要になるか、そういうことに法務省はじめこの領域の人々は関心を寄せている。
 メディアの関心もそうして集まってくるのだろう。

 取材の中でそうして高齢者の話になった時に、意地悪な言い方かもしれないけれども私が言ったのは、高齢者や障害者の社会復帰支援(それは私たちもやっていることだし、その内容だから助成金を獲得できたという経緯もある)は人々の共感を得やすい、何故なら彼らはかわいそうだから、ということだった。意地の悪い言い方だなと自分でも思う。
 その意地の悪さは別段高齢者や障害者に向けられているのではない。そうではなく、高齢者や障害者であれば社会復帰(=更生=rehabilitation)への支援を行なうことに対し抵抗が減る、支援に関心を寄せる側に向けられているのだと思う。

 社会とのつながりが失せ、仕事につくあてがなく、帰住先も生活の糧もなく出所するのは何も高齢者や障害者だけに限ったことではない。特に累犯であり、満期出所であるような時にはそうである。彼らはその累犯性ゆえに周囲からの信頼もなく、寄ってくるのは彼らをエサにしようとする者か仲間として迎える者かであり、悪いことには本人にも更生の意欲が低い。出所当初は低くないにしてもいずれそれは消えてしまう。更生への意欲が次に思い出されるのは、再び刑務所に戻った時だ。
 要するにかわいげがないのだ。
 かわいげというのは大事なもので、それは我々に彼らを助けようという気を起こさせる。精神分析的に言えばそれは意識下で感知される了解可能性であり、コミュニケーションの可能性であり、愛と信頼のある対人関係を結べることにまつわる無意識的な知覚である。目の前にいる人が困難を抱えていると同時にかわいげがあるということは、援助の手立てが成り立ちうるかという間主観的な、あるいは2者の主題に関わる予知である。
 高齢者や障害者であるということは、それに関する閾値を下げている。そして若く(と言っても中年期だけれども)、ふてくされ、意欲の低い者は、それだけで援助の成立可能性について不敵な響きしか残さない。

 したがって、高齢者や障害者に対しては支援の手が向けられやすいという話は良く分かる。けれども、出所した後で社会にどのように戻るかはどの出所者にもついて回る問題なのであり、とりわけ更生の難しい累犯の人々にとってはそうである。それは必ずしも高齢者や障害者だけにあてはまるものではないのだ。
 私が意地悪くなるのは、そこでどのような問題が起こっているかを知るかわりに、問題が高齢者や障害者という分かりやすい問題へと矮小化されるからだと思う。
 もちろんかわいげが大事だというからには、社会に受け入れられやすい問題から取り組むということを必ずしも悪いことだと思っているわけではない。むしろ1つの戦略的なアプローチとして考えた時には妥当なことだと思う。実際に高齢者や障害者の社会復帰には困難も多いだろう。いずれ、問題はそれだけではない、ということが叫ばれるようになるかもしれない。
 けれども報道に携わる人であれば、あるいはこの領域に関心があるのであれば、分かりやすい問題だけに目を向けることに関する違和感を、あまり問題のない形で議論が行なえることへの違和感を忘れないようにした方が良いように思う。

 何故なら犯罪者とは社会から受け入れられずに排除されるところに生まれているものだからだ。もっとも重大な問題はもっとも取り扱いが難しく、かわいげのないところにある。それが社会のせいだというつもりはない。100%本人のせいかは分からないにしても、本人の責任を問えないはずもない(心神喪失とか心神耗弱とかの問題はさておき)。にもかかわらず、それは他者の手を必要としている。彼らを含めて社会が社会であるためには、社会を社会として維持するための手立てが必要とされている。それは決して理解しやすい問題ではない。理解の得られる枠組みでもない。
 彼らは人間という存在のある種の悪(それがどういうものかを私はまだ十分に理解していないし、できるとも思わないけど)を体現しており、そもそも犯罪というのはそうしてかわいげのないものなのだと思うのだ。それを高齢者や障害者という共感しやすいところから入ることで失われる、犯罪が含み持つ悪へのまなざしを私たちは忘れるべきではないと思うのだ。
 罪とは、犯罪とは何か、人は、社会は、どのようにして人でありえ、社会でありえるのかを突きつけられる瞬間から目をそらし、ごまかすべきではない。社会への復帰を助けるという作業は決して人間愛に満ちたものではなく、我々は何者なのかという冷ややかな問いとともにあるものなのだと思う。
 戦略的なことは別として、共感によって覆い隠すものではない。

 そんなことを思って意地の悪さを醸し出してしまう私はきっと、まだまだ青臭いのだろう。

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