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2010/12/09

抱えること

 Winnicottの良く知られた概念の1つに「抱えること」holdingがある。大学院生の頃使いやすくて色々な場面で口にしたり、理解の助けにしたりしていたのだけど、今学生とWinnicotの話をしていると、抱えるという概念をどんなふうに臨床に応用したら良いか分からないことがあるらしい。多分、昔は当たり前であった共感とか話を聞くこととかが、当たり前に思われなくなったことも関係するんだろうなと思う。そこに臨床家が存在していることの重要性が、臨床家が何をするか、しかも具体的な水準で何をするか、ということの重視に取って代わられたように語られているからなんだろうと思う。といっても最近まで私も抱えることの含意が分からないなと思っていた。し、もしかしたら今でもそうなのかもしれないと思う。

 Symington(だったかな?)の何かの本の中でWinnicottの理論を紹介する章があり、そこにGuntrip(だったと思う)がWinnicottの分析を受けた時の話が引用されている。そこに描かれるWinnicottの解釈は初回から最早期の母子関係を取り扱うものであり、しかもそれは再構成的で、Winnicottの理論がそうであるように、その母子関係を現実のものとして語っている。そこにGuntripの投影を認める発言はなく、環境の側の失敗がどのように生じたのか、それが今ここでどのように再現されているのか、ということが解釈されていた。もちろんそれはGuntrip自身の分析の記録なので、Guntripの空想によって歪められている可能性はある。けれどもMargaret Littleのそれにおいても同様な姿が描かれているので、おそらくWinnicottの解釈は最早期の母子関係を現実のものとして取り扱うものなのだろう(Bolasの「対象の影」という概念もそうであるように)。
 それを読んだ時に、Winnicottの抱えることは文字通り身体的な抱えることについて言及する概念で、比喩や理解や体験として取り扱われるのではなく、生後すぐの現実の母子の相互作用について言及するものなのだなということを思い知らされた。もちろん抱えることは心理的に抱えることと身体的に抱えることの両義性を湛えた概念であるわけだけれども、それでもこれまではどちらかというとその心理的な意味、あるいは心理療法の関係、カウチを含めた面接の設定に表される象徴的な意味合いで理解されることが多かったように思う。少なくとも私はそういう文脈で理解をしていた。でもその引用されたGuntripの記述、あるいはLittleの記述はそうではない。生後すぐのある時期にあなたはこういう体験をしたのでしょう、あなたのお母さんはこんなふうにあなたの養育に失敗したのでしょう、とWinnicottは言うのだ(なるほどBolasも「対象の影」と言いたくなるはずだ)。

 一頃BionのコンテイニングとWinnicottの抱えることはどんなふうに違うのか、ということが話題にのぼることがあったけれども、前者がもの想いreverieと関連付けられることに示されるように、精神の作用であるのに対して、後者はより身体的である。むしろ全身的な体験であり、心を含めた身体が、身体を含めた精神が、そこに存在していることを可能にする環境であり、背景である。確か精神分析辞典に松木先生が書いていたことだったと思うけど、前者には分離した2者が関わっており、後者はむしろ2者の一体になった状態を指し示してもいる。Bionにとって知ることは情緒であり本能であり、考えを考える思考の作用が(あるいは考えられない思考の作用の障害が)コンテイニングの対象であるのに対して、Winnicottにとって抱える対象は乳児という存在の全てである。例えばそれは、布団にくるまっている時のあの包まれたまどろみの感じなのだと思う(多分)。そこには包むものと包まれるものとの一体になった感覚がある。
 というようなことを以前から考えていたのだけど、改めてその身体性に、あるいは最早期の現実性に思い至ったのは、刑務所の中での受刑者との面接での体験があったからだ。

 刑務所の中には様々な受刑者がいて、精神病の人もいれば、人格障害の人もいる。発達障害を抱えた人もいれば、知的障害の人もいて、もちろんそれぞれに対応は異なる。と言っても、病院や施設で対応するようには対応できず、それは刑務所の構造に柔軟性が入り込む余地がなかなか見当たらないためなのだけど、それでもある人の処遇上の問題がどこから来ているのかの見立ては、受刑者本人にとっても、処遇する刑務官達にとっても必要な理解となる。例えば、周囲で大声を出す人がいると、それに乗っかって騒ぎ出す処遇困難者(と呼ばれる人)がいて、それを精神病圏の問題として捉えるのか、それも薬物性精神病と言えるのか、そうでないのか、拘禁反応として捉えるのか、あるいはADHDとして考えた方が良いのか、人格障害的なのか、といったことは、本来であれば精神科医の診察で明らかにして欲しいところではあるけれども、刑務所の心療形態ではなかなかままならないところがあって、心理面接の中である程度の見立てをする必要も出てくる(診断はしないし、記録でも示唆しかしないけど)。
 そういう人と会っている時に、あるいは全く別の罪種・罪名や状態で会った人に、そうした精神障害や発達障害の有無はさておき、ああこの人は普通ならお母さんに抱えられて落ち着くような、そういう種類の落ち着きを感じたことがないのだろうな、と思うことがある。刑務所の消灯は早いのだけど、起床も早いせいである程度みんな寝ることができて、けれども中にはそういう布団にくるまった静かな時間に落ち着きを失う人がいる。もちろんそういう人は精神病院にだっているだろうし、「シャバ」の子どもや青年にだっているのだろうけど、でもそういう受刑者の話を聞いていて、あるいは覚せい剤の常習者の話を聞いていて、この人には抱えられて落ち着くという体験がないし、これまでもなかったのだろうなと思うことがあるのだ。興奮はその落ち着きに取って代わる、あるいはむしろその欠落を埋め合わせる、過剰な補償であり、躁的な防衛であり、そこでの抑うつ感は迫害的な感覚ではなく、抱えることの欠如なのだろうなと思うことがある。実際にそういう話をしたこともあって、その時は何かと騒がしく落ち着きのない相手がめずらしく比較的静かに喋り、(面接が終わると、居室に連れ戻す刑務官を呼びに行き、その間受刑者は部屋で待っているのだけど、その間)静かにしていたりして、抱えることに目を向けるというのはこういうことなのかなと思ったりする。

 そういう体験をしていると、Winnicottが反社会的な行為が希望の現れであると逆説的に言った時に見ていたのは、こういう風景なのかなと思ったりすることがある。あるいはBowlbyが非行少年(少年という言葉には少女も含まれるのだけど)たちに愛着の障害を見ていたのも、こういう風景なのかなと思ったりもする。抱えるという体験は、全身的で、身体的で、物理的な世界に属する現象であり、けれども全体的で、精神を身体に住まわせ、存在することの連続性を保証している。それは心理的で象徴的な体験になる前に、まずは身体的で感覚的な世界に属することである。
 抱えることという概念の持つそうした含意をこれまであまり理解できていなかったし、それを臨床的に利用できていなかったな、と最近思うのだ。抱えることの現実性にもっと目を向ける必要があるのだということを、このところ思っている。

 それでも実のところそれは、今ここでの状態から湧き上がるこちらの逆転移に基づく理解であるし、その意味で本人の空想に所属する問題でもあるのだとも思う。Winnicottが最早期の現実として取り扱ったその事実は、そうして最早期の現実として扱いうるほどの具象的な心的事実(というよりもむしろ無意識的な空想における現実として表現できるようなもの)であるのだろうし、それを現実として取り扱うことの臨床的な意義をどう考えるにしても、再構成はやはり解釈なのだろう。どれほど精緻な再構成も、あるいはそれが精緻であろうとするほどに、現実か空想かの境目を定めきれなくなっていく。その意味では、やはりそれを空想としておく方が、事実の認識という点に置いて奥ゆかしい態度であると思うのだけど、それでも排泄と取り入れという心的機制の水準ではない、身体的で全身的な水準を思うことは、そしてそれを最早期の母子関係の現実として想像することは、躁的防衛の背後にある抑うつ感の理解につけ加わわるものであるだろう。少なくとも私にはそれが理解の幅を広げてくれるものであった。
 身体の精神性、その全身性に、抱えることという概念は目を向けている。多分。

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