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2010/09/20

犯罪への厳罰化ということについて

 最近司法臨床の本を読んでいることもあって、犯罪者に対する刑罰の強化、いわゆる厳罰化について考えている。この領域はどこを切り取ってもそうであるように、法律と哲学と社会学的調査と世俗的な大衆感情と呼ばれるようなものとから成り立っている世界なので、1つの問題について論じようと思うと、私が持っている以上の知識や理解が必要とされてしまう。ひとまず問題を心理的な側面のごく限られたところに絞ってみたいと思う。あらかじめお断りしておくけど、これはまだかなりの程度草稿である。草稿といってもどこかに出す訳ではないけれども、自分が書いたものとしての結論に十分な手応えを感じているかというとそうでもなかったりする。そういうエントリであることを理解して読んでもらえるとありがたく思う。

 心理療法家の書いたものを読んでいると、当然ながらどれも犯罪に対する厳罰化には反対の立場を示している。心理療法とはそれがどのような形で用いられるものであれ、職業倫理的な問題として、それを受ける者にとって役立つことを目指して行われており、したがってそれを行なおうとする者はすでに心理的関わりが役立つことを目指している。もしも厳罰化に賛同するのであれば、与えられるべきものは罰であって、治療ではない。治療という言葉を使わないのであれば援助と言っても良いかも知れないけれども、いずれにしても心理療法は犯罪を行なった者の改善更正に寄与するために行われている。
 もちろん犯罪者の中には「改善更正」というものを初めから拒否している者もいる。イメージがわきやすいところで言えば(実際にそうかは別として)暴力団の組員のような者だ。そうした人に対して心理療法を行なうことが果たして適切なのかということは問題になりうるところであり、それは、心理療法を求める主体は誰か? と問うことでもある。もしもそれが組員自身の希望であれば、そこにはすでに改善更正への意思が含まれている。しかし、そうではないところで行われる心理療法は、むしろ刑務所や社会の圧力を代表するものとして行われており、そこでは改善更正という目標が本人の意思とは異なるところで設定されている。それは心理療法を受けるものに役立つことを目指すこととの矛盾をはらむ。
 そのような中で心理療法が行われるというのはどういうことなのか。それを考えるには改善更正とは何か、ということを考える必要があるのだけれども(そのようにして問題はどんどん深く私の手には負えなくなってしまう)、それはおそらく乳幼児にとっての社会化と同じものである。私たちの社会には社会としてのルールがあり、社会を構成している私たちがいる。そこで暮らすためにはルールを覚える必要があり、ルールは社会の構成員をお互いに尊重するように形作られている。好むと好まざるとに関わらず、それが現実なのであり、人は現実に参与するように潜在的には生まれてくる(のではないかと思う)。そのための制約や圧力が社会の側からかけられると同時に、個人は社会へと迎え入れられる。
 乳幼児にとって親が行なうそうした社会化の作業を心理療法家が担うということは、大人になった乳幼児が社会化の獲得を果たせなかったのは心理的な要因による、ということを含意していることに他ならない。逆に言えば社会化の過程を歩むことを阻むものに対応するために求められるのは心理的な要因について考えることである、という時に心理療法が求められるのだ。それが本人の意思ではないとしても、それが本人の意思とはならないというまさしくそのところに、現実に耐えられないこと、現実を恐れること、現実に怒りを覚えることを心理療法家は見出している。子どもが養育者に愛着しなければ、そこに私たちは問題の存在を読み取るように、社会に参与できないところには現実と向き合うことの障害が読み取られていく。心理療法はそこに語りかけていく。

 言い方を変えれば、どのような時であれ、手を伸ばすべき助けを求めている心の部分を見出しているから(見出せるのではないかと考えているから)こそ、心理療法家は心理療法を行なうのである(おそらく)。
 心理療法家が厳罰化と対峙するのはこの部分である。

 厳罰化はそこにある犯罪を悪として裁く。他者や社会に与えた危害や損害を罰という形で償わせるが、これまでは支払うべき対価を低く見積もり過ぎていたので、我々が失ったものの代償にふさわしいものを支払わせましょう、というのが厳罰化の意味するところである。こうした議論が生まれてくるのは1つには犯罪の凶悪化、低年齢化が叫ばれていることがあるのだが(このこと自体議論の多いところで、通常の凶悪犯罪自体は戦後ずっと減少傾向にあるのはあるのだけど、無差別な動機の理解しがたい凶悪犯罪がどうなのかについて私は知らない。ちなみに犯罪統計上、凶悪犯罪は殺人、放火、強盗、強姦を指している)、ここに犯罪抑制の効果への期待と被害者感情のテーマが付随するところがこの問題の象徴的なところであると私は思う。我々が失ったものはこれだけのものなのだ、と罰を持って示すことは、これだけのことをしたらあなたにもそれ相応の損害を引き受けてもらいます、という将来への威圧であり、同時にこれから現れてくるかも知れない誰かへの警告であり、現にそれを犯したものへの報復である。
 そこにあるのは、そう言って良ければ見せしめと憎しみである。犯罪を行なえば何が起きるかを身を持って知らしめ、被害にあったことの怒りを社会的な力において現実化させる。そのこと自体が間違ったことだとは私は思わない。自分が住んでいる社会において、自分が遭遇するかも知れない危険に対し、恐れと怒りを抱き、威圧を持ってこれを防ごうとすることは、あるいは自らの身に降りかかった危害に対し、怒りを覚え、憎しみを抱くことは、しばしば生じることであり、必然であるとも言える。悪を為したものに対し罰を持って反省を促すことは、取りうる方策の1つでもある。取りうる方策の1つであるというのは、それによって反省が生じる可能性はあるからである。

 問題になるのはそこに罰を与える側の恐れと興奮もまた伴っているところである。

 社会的な振る舞いに失敗した子どもは、周囲の大人によって叱られ、場合によっては罰を受ける。罰を通して子どもは何が社会に許容されることで、何が許容されないことかのルールを学ぶ。それと同時になぜそれが許容されないのかを他者の視点から学ぶことができる。そのようにして罰は教育の一部を担う。けれどもそれが成立するのは、周囲の大人が子どもの失敗を憎む以上に子どもの成長を願っているからである。意識的にであれ無意識的にであれ大人は子どもの成長を破壊しない。けれども、もしも子どもを恐れ、子どもを憎み、罰を与えることに興奮を覚える大人がいれば、子どもはそこに恐れと憎しみと興奮とを見出す。子どもの心は学ぶことにではなく、恐れと憎しみと興奮を沈め、同時に発散させることに向かってしまう。もしかするとその感情が自分のものなのか大人のものなのかの区別さえつかないかも知れない。
 厳罰化の議論が問題となるのもそれに似ている。行われた犯罪が社会の了解を超え、無差別的で、理解不能であるほど、犯罪者を恐れ、憎み、糾弾することの興奮に身をゆだねることが生じやすい。そのことは罰を与える側から考える能力を奪い去り、したがって与えられた罰には考えることを促す力が失われる。罰は破壊のために用いられ、反省や償いへと心を向かわせることがない。それだけの機能を果たすことができなくなる。それは精神分析的な心理療法家が逆転移と呼ぶ状況にとても良く似ている。
 逆転移という言葉の意味するところは、そこに転移が生じていることに気付かなければいけないということでもあるのだけれども、行われた犯罪が凶悪な犯罪であればあるほど、社会は逆転移に巻き込まれていく。怒りと憎しみと恐れと、そうした興奮とが、罰という正当な衣を来て現れる。しかし、これだけの損害を受けたのでこれだけの報復をすることは当然であるという言説は、実のところそのまま犯罪者が用いる社会への抗議の言葉であったりもする。私たちは自らの正当性を主張しながら、犯罪者と同じ思考の枠の中に引き込まれている。社会がこれだけの損害を受けたので、と強調するのと同じように、犯罪者もまたこれだけの損害を受けたので、ということを強調する。そのことに正当性がないと私は言っているのではない。損害を受けたことと報復とを直結させることに見られる考える力の喪失について目を向けているのであり、それが逆転移に絡め取られていることなのかも知れないということについて考えているのである。
 心理療法家は手を伸ばすべき助けを求めている心の部分を見出して心理療法を行なうと先に書いたけれども、言い換えればそれは損害を受けたことの正当性を(それが現実のものであれ、空想のものであれ)認めているということである。それがどのような犯罪であっても、どのようにしてそこに至ったか、どのようにしてそこから抜け出すか、ということについて心理療法家は考え続ける(もちろん原理的にという意味で)。厳罰化に含まれる逆転移の響きに、したがって心理療法家は慎重になるのである。そこでは行動することが思考することに取って代わり、破壊が成長の座を奪う。成長の予知などないという、まさしくその点において、考えることが失われていることを思うのである。その点において心理療法家は厳罰化と対峙することになるのだと私は思う。

 厳罰に処すことが後に続くかも知れない誰かへの抑制力となることを期待することも同様である。そこでは罰せられる犯罪者には誰の目も注がれていない。社会の目は次にやって来るかも知れない未来の犯罪者を向いており、今ここにいる犯罪者はその意味で道具的に扱われている。自らが道具的に扱われることは、他者を道具的に扱うことしか生み出さない。そこにも犯罪のプロセスの再生産がある。自らが道具的に扱われることをもって、他者を道具的に扱い犯罪を行なうことの罪を意識させる方法は、1つの発想としてはあるかも知れない。けれども、心はそれを心として扱われない限り心にはならない。道具的に扱われることで自らの罪を知ることのできる心は、すでに反省ができるだけの成長を果たした心である。心として機能していない心は道具的に扱われることを道具的にしか理解することができない。そこに生まれるのは憎しみである。
 そのようにして心は心として機能せず、社会と犯罪者の間に終わりのない憎しみが繰り返される。行なった犯罪に対し、与えられる罰が少ないということはあるのかも知れない。時代は代わり、犯罪の質も変わり、それに合わせた刑罰の強化はありうることなのかも知れない。けれどもそれが社会の中の恐れと興奮に巻き込まれている限り、犯罪者に罪の意識は生まれない。むしろ心は道具的にしか作用せず、それは心理療法家が心を扱うのとは逆のやり方である。心理療法が目指す方向とも逆の向きである。その点において心理療法家は厳罰化に反対するのである(と思う)。心理療法家にとって刑罰は罪を認識させることとともにあるものであり、そのためには刑罰の中から、刑罰を加えるということの中で心が働くことを失わせるべきではない。そう考えるのだろう(多分)。

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