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2010/06/26

映画を見る

 映画を通じて心理臨床や人の心について語るという手法は、もう随分前から使われているものだけど、最近私も講義の中で映画を流すことを始めた。初めは大学院生と映画を見てそれについて論じ合うというところから始まったものだったのだけど、ケース記録を通じてではなく、視聴覚を用いた、共有される体験は、目に見えない心について話しあうのにやっぱり有効なんだなと再認識した。

 これまでにいろいろな学生と見た映画は、「もののけ姫」「カッコーの巣の上で」「再開の街で」など。前2つは定番というか、別に私でなくても使っているし、「再開の街で」は、いくつか疑問はあるものの心理療法のシーンが描かれていたりするので使ってみた。映画を見て、ある人物がどんな人物なのか、行動や話題の転換とそこに見られる防衛、そこから読み解くことのできるパーソナリティ、対人関係のあり方を解説した時、学生の反応は目を輝かせるものであった。学生の1人には、初めて精神分析がどういうものであるかが分かったと言われた。それは嬉しいことであると同時に、何とも残念なことでもあるのだけど、その学生が言っていたのは、他の心理療法は講義を聞いているだけでイメージができるのだけど、精神分析は話としては分かるけどイメージとしてはよく分からなかったというものだった。
 確かに、精神分析や精神分析的な心理療法は語られていないことを拾い上げるものであるので、理屈では分かっても、語られていないことを想像するのはやはり難しいことであるのだろう。

 そもそもどのように語られていないことに接近するのかが、きっと彼ら/彼女らには分からないのだ。「カッコーの巣の上で」の中に、病棟でグループが行われているシーンが何度か出てくる。それを使って、どこで話が変わっているのか、どんなふうに話が変わったのか、何のために話を変えたのか、それによって何が語られていないのか、といったことを考えさせたのだけど、そうした考えるべきポイントというか、ここについて考えてみることで内的世界に接近できるという部分を学生達は捉えることができない。それは大学院生の臨床の指導をしていても感じるところなので、当然といえば当然なのだけど、でも、そうした引っかかるところに引っかからないと、話を聞くという作業は本当にただ聞いているだけになってしまう。
 話を聞くことの中に私たちの専門性はあるのだけど、それは語られていることの背後に語られていない言葉を聞き、その現れである小さなきしみに耳を傾けることができるからなのだ。
 なぜそこが意味のあるポイントになるのかを私もうまく説明ができないのだけど。

 でも、映画を使えば、そこにポイントがあるということをとにかく共有することができる。それはとてもすごいことで、なぜなら非言語的な感覚を非言語的なままに共有することができるからだ。説明するという行為は、それ自体すでに言語的な活動なのであって、語りの中に生まれる小さなきしみは説明された瞬間にきしみではなく、きしみについての記述でしかなくなってしまう。説明ができるということが何かしっかりしたことであるとか、学問的であったり科学的であったりするように思われやすいけど、でも説明される対象が非言語的なものである時、それはどんなに言葉を尽くしても、「それ」そのものにはなれない。いつも「それ」の輪郭をなでるだけでしかなく、話としては分かるのだけどイメージとしては良く分からないというのは、きっとそういうことなのだと思う。
 非言語的な体験を再構築できるほどに、私たちの言語的伝達は優れたものではない。
 何故そこがポイントになるのか説明をしなくてもみんなが納得できるし、そこから進めた推測から浮かび上がる人物像の鮮明さに、驚きを持って接することができる。それが映画を使って心について論じることのすごさであり、また面白さであるのだと思う。そうして精神分析的な感覚や感触は伝えていくこともできるのかも知れない。
 目に見えないものを映し出す映画と、それを可能にする役者や監督という職業のすごさを、最近良く感じている。

 いやぁ、映画って本当にいいもんですねぇ。

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