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2010/05/29

文章を書くこと

 文章を書くことについて。

 私は結構自分の書いた文章が好きである。単語の選び方、音韻の運び、醸し出される雰囲気、など、私に与えられた数少ない才能の1つに文章を書く事があると思っている。この場合の才能とは、それを持って自分自身を楽しませることができる文章を書く事ができるということを意味しているので、他の人にとってそれほど良い文章でなくともこの場合は構わないのだけど、私は結構自分で書いたものが好きである。この点において、自己愛的であるとのそしりを免れないけれども、まあ、それも仕方ないかなと思う。自分で描いた絵を飾ったり、自分が作った歌を歌ったりすることとそれほど変わらない形で、自分の文章を読み直すことがある。
 だから、そうして書かれた文章を削らなければいけない時は結構苦痛で、しかし残念ながらそれはしばしば訪れる。特に原稿を書いている時がそうなのだけど、書き始めたときはとても規定の枚数が埋まらないと思っているのに、気が付けばそれを超えそうになっていて、終わりに近づくにつれてどこを縮めたら良いかに頭を悩ませ、先に進まなくなる。その分量は数行であったり、1ページであったりするのだけれども、そうして文章を縮めると、それはもう元の文章とは異なるリズムを持ってしまう。私にとって文章とは律動や音韻を伴うものなので、ある部分の文章が短くなると、その前後の文章もそれに合わせて整形しなければならなくなる。そういう感覚が一般的なものであるのかどうか、あまり人と話したことはないのだけど、私には私のリズムがあって、内容が通じるだけでは物足りない。というか、美しくないと思ってしまう(もちろんそれは私にとってなのだけど)。
 何よりせっかく書いたものが失われてしまうことが残念であったりもする。この表現が好きなのにな、とか、ここが掛け詞になっているのに、とか思ったりしているのだけど、当然ながら削られる時はそういう所から削られていく。そして仮に残ったとしても、あまりその部分には気付かれない。人生にはたくさんの無駄が必要であるように、文章にもたくさんの無駄が生まれるのだけど、無駄なものは無駄である、と合理的には思わざるを得ない。無駄なものが必要であるという表現自体がすでに合理的ではないし、正確に言えば無駄に思えるものでも必要なものがあるということになるのだろうけど、そうした直裁的な言い方は表現としての面白味がないでしょう、とか思っても、もちろんそんなのは全然合理的ではない。

 やれやれと思う。

 こんなことを書いているのは、今書いている原稿がやっぱり枚数をオーバーしてしまっているからとか、そんな理由では全然ないのですよ。ええ。

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