« 中間処遇ということ | トップページ | 帰国 »

2010/03/06

資格問題雑考 その2

 つなでさんのところで書かれているけど、全心協のサイトで昨年の資格問題についてのおおまかな流れが載っている。12/23に予定されていた日心連総会で何からの合意が得られたのかどうなのか、認定協会の手紙とかも出回っているけれど、どんなことになっているのだろう、というあたりで、思うところをつらつらと。

 前のエントリでも露呈しているように、私はこの問題にあまり深く関与しておらず、そのために今この問題がどういった展開を示し、どういったことが議論になっているのか、良く分かっていない。それで良いのか、という意見もあるかもしれないけど、私個人としては、どうしてそうなのか、という問いの方が関心がある。でもそれは話が別の方へ行ってしまいそうなので割愛。

 今、学部の新しいカリキュラムを作っていて、そのためにどこかからやってきた国家資格のカリキュラム案とかを眺めたりしているのだけど、この科目は何だろう、と思うようなものもあれば、まあ順当だろうなと思うようなものもある。私にそう思われることが、どの程度意味があることなのか分からないけど、1つだけはっきりと言えることは、心理学は臨床心理学ではないということだ。
 それは大事な区別であると私は思っていて、今回の資格問題の中でも1つの論点になっていると思うのだけど、心理学は心理学であって、実践の、しかも援助することに特化した臨床心理学とは同じものではない、という認識はきちんと持っておく必要があると思う。
 卑近な例で言えば、私の所属している大学にも基礎系、あるいは実証系と呼ばれる心理学を専門とする先生がいる。そうした先生たちもカンファレンスなどで事例に接することがあり、また学部生、大学院生とも交流があって、それぞれの学生の臨床的な力についていろいろと口にしたりもする。心理学を専門とする教員であっても、そのように臨床についてある程度語ることはできるし、またある程度は語れるほどの懐の広さであるとか、人としての感性であるとかは持っていて欲しいと思う(もちろん逆もまた然りなのだけど)。
 でも、それじゃあ例えばそうした教員に、心理的な、あるいは精神的な問題を抱えた学生が出てきたときに(残念ながらというべきか、必然的にというべきか、そうした学生は心理系の学部学科であるほど多くなるのだけど)、対応をお願いできるかとか、学内の学生相談の委員をお願いできるかとか、実際に臨床の現場に行って話を聞くとか、介入をするとかができるかというと、そんなことはないと思う。まれには、そうした関わりが上手な教員もいるかもしれない。でも、資格という事を考えたときに、一般化された言説として、心理学について学び、研究をしているということと、心理学的な援助を行なうということは同列には扱えない。

 違いはいろいろある。質問の仕方、相づちの打ち方、共感とは何か、傾聴とはどういうものか、関与しながらの観察とは何か、ということについて、あるいはむしろ観察しながらの関与、ということについて、心理学はほとんど何も教えない。心理学の研究法として面接法は教えることはあっても、対象者の(という言い方をしてみるけれども)認知的、情緒的、行動的な揺れ動き、あるいはそれのない状態をリアルタイムに感じ取りながら、捉えながら、そこに浮かび上がる、あるいはそこに潜んでいる問題や困難や偏りや脆弱さを捉え、かつその変化を目指すという関わりを、継続的に行なうという作法は、研究としての面接の中にはない。むしろあるべきではない。
 もっと抽象的な言い方をすると、対象者の(という言い方をするけれども)あり方に合わせて自分の態度や雰囲気や関わり方やふるまいを調整するという訓練は、心理学の中には含まれない。心理学とは心を科学するものであり、科学とは客観性を標榜するものである。そのために心理学には数量化があり、心理測定があり、また心理統計がある。対象者との関わりは極端な言い方をすれば数字を通して行われる。その身を通して、その肉を通して、その空気を通して関わることはない。
 恋愛を研究する心理学者が、恋愛上手(という言い方が適切かどうか分からないけど)なわけではない。教育心理学者が優れた教育家であるわけでもなく、健康心理学者なんてしばしばとても不健康な生活をしている。研究をするということと、我が身の振る舞いを整えるということは、心理学的(研究)活動において分けておくことができる。前者は客観的な領域の営みで、後者は主観的な領域の住人だからだ。
 でも、心理臨床というのはそうではない。客観的であることと主観的であることが同時に存在し、同時に進行する領域に私達はいる。それは1つの問題であり症状であると同時に、1人の人間の人生の領域でもある。数量化はクライエントを捉える1つの方法論ではあるけれども、挨拶の仕方、腰の掛け方、何より言葉を向けるその狙いの定め方は数量化の彼岸にある。私達はその身を通して、その場の空気を共有して関わりあっている。それは流派や技法の如何を問わない(もしも自分は客観的にクライエントを捉え、関わっていると思っている臨床家がいたら、とても丁寧な言い方をすれば、残念ながらそういう人とは友達になれない)。

 基礎的、実証的なという意味で、心理学は臨床心理学ではない。ひるがえって臨床心理学も心理学ではない。その違いは大きく、したがって基礎系の心理学を基盤に臨床心理士的な資格を考えない方が良いと私は思う。

 同じ理由で名称は臨床心理学に関わる資格であることを示唆するものである方が良いと思う。もしももっと一般的な「心理士」のようなものを考えるとしたら、それはもはや援助のための資格ですらなくなる。もちろんその方向性もあって良いと思う。安全や対人関係や心理学的調査や健康促進やそういった領域に従事する、あるいはそういった領域で活躍する心理学研究者、あるいは卒業生、修了生だっているだろうと思う。そうした人たちまで包含する資格を目指すということであればそれでも良いと思う。でも、それは心理学的な援助とは違う。重なり合うことはあるとしても、それをもって心理学的な援助とは言わないと思う。一般的な認識として。
 基礎的、実証的な心理学のためにも、臨床心理学に関わる資格を心理学の資格を代表させるものとはしない方が良いのではないかなと思う。

 国家資格のためのカリキュラム案を眺めながら、私は臨床心理学よりのカリキュラムに賛同する。とはいえ、これもいくつかの版があるだろうし、今でも改訂されているのだろうし、もしかしたら誰かにつかまされた偽物かもしれないし、したがってカリキュラム案そのものに対して言うことは何もなく、私のここでの主張は心理学的援助の資格を作ろうとするのであれば臨床心理学をないがしろにしない方が良いですよ、ということだけである。
 別にそれを中心にするべきだとまで主張する気もないのだけど、それにまつわる臨床心理学をとても重視することの困難はまた別のエントリで。

|

« 中間処遇ということ | トップページ | 帰国 »

コメント

こんにちは.

僕も同様の意見です.資格を取るのはもう少し先のことですし,蚊帳の外ではあるのですが,国家資格化に対し「意見」を持っておくことは,今はすごく大事だと感じます.

ただ国家資格になってからの話しではあるのでしょうが,具体的なカリキュラムについては,薬理,解剖生理学などの科目を必修として盛り込んだ方が良いだろうと個人的には思います.これは,精神医学系の書籍などを読んでいて,その辺を押さえておいてほしいという意見をよく見ますし,米国の臨床心理士は薬理に明るいという話しを目にすることにもよっています.

働く職場が多様なだけに,「何を教えるのか」という部分についてはかなりご苦労が多いことと思いますが,質の高い援助を提供できるだけの資源が得られる教育環境になることを,当事者として臨みますし,またそういった援助が提供できるだけの資質・能力をもった人が担う国家資格になって欲しいと思っております.

投稿: rhox2001 | 2010/03/13 13:34

>rhox2001さん

 こんにちは。

 カリキュラムの話はおそらく、国家資格になってからではなく、むしろ国家資格の議論に含まれるものだと思います(おそらく)ので、これからではなく、今、の問題でしょうね。どのような資格とするかということを、具体的に表しているのがカリキュラムだと思いますので。
 例え臨床心理士の資格を取得していなくても、心理臨床の仕事とはどういうものかという問題は、大学院生や学部生、クライエントや患者、そして広く市民に開かれた議論であると思いますので、いつでも議論に参加してください。私にその相手ができるかは保証の限りではありませんが。

 ちなみにカリキュラムを策定するということは、大学にどれくらいポストを作ることができるかという政治的な問題を含んでいて、それをどうでも良い問題として退けることはもちろん可能ですが、他方でこれもまた現実の世界に属する問題ではあります。ヴントがライプチィヒ大学に心理学実験室を開いたという歴史的事実もまた、こうした問題に関わる事であり、東大の大学院に臨床心理学のコースができたということは、日本の学問において臨床心理学が学問として認められたということを意味してもいます。それについていろいろな意見があるとしても、カリキュラムを作成するということ、大学において講義・実習・演習科目を開設するということは、学術的かつ政治的かつ情熱的な問題なのです。良くも悪くも。

 そうしたことも関係するのですが、薬理(精神薬理の方が的確かもしれませんけど)や解剖生理学などは確かにあった方が良いかもしれませんが、少なくとも心理臨床の中核的要素ではないため、むしろそれらを含んだ精神医学という科目を必修とし、上記2科目などは選択科目として開講する大学もある、と位置づけるのが現実的なところではないかと私としては思いました。医師からすれば医学的、精神医学的知識を求めたいところかもしれませんが、今回作ろうとしている資格は医学の領域においてのみ用いられる資格ではありません。もしかしたら哲学者だって言いたい事はあるかもしれませんし、社会学者だってこくらいのことは知っておいて欲しいと思うところはあるでしょう。法律学者もそうかもしれません。
 けれども私達は哲学者ではなく、社会学者ではなく、法律家でもなく、それと同じように医者ではない、ということもまた理解しておかなければならないところなのではないかと思うのです。精神疾患にしろ、心理的な問題にしろ、精神的、心理的変化や特徴には何らかの形で神経生理学的な状態が関わっているでしょうが、私達が心理学にいるということの意味は、それを心理的な次元として、心理学的な事象として捉えるということを意味しているのだと思います。ですので、関連領域の中で必修にするものは1つくらいでないと、学問としての独自性を示せないだろうと思うのです。独自性を示すためにそうするのではなく、同じものではないから別の資格を作るのに、そのカリキュラムが似たようなものになっては意味がないだろうということです。
 それとアメリカでは臨床心理士が確かに薬の処方も部分的にできるのですが、アメリカの臨床心理士(clinical psychologist)は博士号(Ph. D.)を持っている人に限られているのですよね。日本で今議論になっているのは、学部生の資格として国家資格化しようというものなので(そうなるかは別にして)、議論の水準がだいぶ違うのだろうと思っています。

 こうやって好き勝手に書いているだけでも頭がいたいのに、この作業に実際に取り組まれている人は本当に大変な作業だろうなと思います。どのような形で結論が出されるか分かりませんが、思うところは誠実に綴っていこうと思っています。

投稿: nocte | 2010/03/14 00:51

カリキュラムは資格化においてわりと主な議題になるのですね。確かに「何を必修とするか」など具体的なものですね。そしてそんなカリキュラムにおける薬理などの科目についての意見は,精神医学系の本をわりと読んでいることと,そこで見聞きしたものをややそのまま自分の意見としているところが大きいです。

というのも,自分がそもそも「臨床心理学」というものに対して明確な視点を持てていないことがあります。臨床場面における心理的な援助をしていくものと漠然と捉えてはおりますが,実際にはもっと立ち回りの広い援助職のようにも感じます。

でもnocteさんの意見を聞いて,「臨床心理士」の専門性(独自性)を考えると,あれもこれもは,資格の同一性を揺るがすものだとも思いました。

ところで精神医学系の本をわりと読んでいるといいましたが,その中でも一番違和感があったのが,やはり「治療」という言葉でした。臨床心理学としては,そこは「援助」なのだと思うのです。精神医学的な知識の問題にしかり,医師会が独自に「医療心理師」を作ろうとした(している?)というのも,個人的には「それは尤もかもなぁ」と思います。

そして米国と日本の「臨床心理士」の水準の違いについては,確かにその通りですね。蛇足ですが,義父に以前,「臨床心理士は臨床心理学者なのか?」と問われて困ったのを思い出します。今でも困りますが…。

あと,とくに医療施設においてですが,心理療法(精神療法)と医行為の別なども問題となっているようですね。この場合,むしろ医行為の定義が問題な気がしますが。

ちょっと切れが悪いですがこの辺で。

投稿: rhox2001 | 2010/03/19 22:04

nocteさん
コメントを書こうと思いながら、2ヶ月あまり経ってしまいました。トラックバックありがとうございました。

昨年春頃から「ひとつの国家資格」を目指す動きとそれに反対する激しい議論がある中で、「臨床心理学/心理学」「臨床心理士/(仮)心理士」という問題について、どうやって言葉にしたら良いのかを考えている毎日です。

私個人は、国家資格は、直接・間接に、社会の中で人々を援助する専門職の資質と責任を問うためのものだと考えており、援助のための学問・実習・研究を中心に据えないカリキュラムは考えられないと思っています。対人援助の心理学としての「臨床心理学」が、国家資格のカリキュラムの中で中心的領域になる必要があることは、何のための国家資格化であるかを考えれば、明らかではないかと思います。

それに加えて、基礎系心理学の「客観的」な手続きを知っておくことは、精神医学や、社会学や、法学について知っておくことと同じように、臨床心理学の基礎を豊かで確かなものにするために役立つでしょう。理想としては、臨床心理学を軸に、その他の心理学や関係諸学問が、すべて「援助のため」という目的の中で、生産的で美しい比率で盛り込まれたカリキュラムが望まれると思います。

それでは、なぜ、現在議論されている「ひとつの国家資格」が『「臨床心理学」を基盤にした「臨床心理士」である』として語られていないかと言うと、それは、現実的な手続きを進めるにあたって、さまざまな立場の人と「国家資格を作りましょう」という話をするためには、どうしてもそこはいったん置いておく必要があるという状況のためです。

単純に言えば、「臨床心理士」が、財団法人の協会による民間認定資格として存在しているために、かえって、より幅広い「公共性」を必要とする国家資格の名称としてそのまま「臨床心理士」を使うことが難しくなっています。「それなら、臨床心理士という名称を、協会が国家資格のために返上しましょう」と、もし仮に言ったとしても、これまで20年の歴史は、簡単にはなかったことにはできないという難しさがあります。

そこで、昨年春頃から考えられている「ひとつの国家資格」の流れは、名称を臨床心理士にこだわらない(できる限り最後まで「臨床心理士」という名称が残る道を模索するが、しかし、名称にこだわって国家資格化が消滅するよりは、国家資格化が実現することを優先する)が、その代わりに、中身をしっかり対人援助の学として構築することを目指しています。少なくとも私はそう考えています。

もしここで、今回の「ひとつの国家資格」のタイミングを逃せば、それこそ、「臨床心理士たちは、やはり、国家資格は作らずに、自分たちの認定資格を守ることばかり考えているんだな」という風評を増してしまい、臨床心理学や臨床心理士をはずして、「基礎系心理学を学んだ心理士」の国家資格を作ろうという流れを勢いづけるでしょう。その徴候は、この2,3年はあちこあちから出ていますので。

今回の「ひとつの国家資格」は、「臨床心理学を学んだ(仮)心理士」を目指す動きです。中身と名称にねじれがあるように見えるかもしれませんが、名称を「臨床心理士」とできないのは、臨床心理士の認定資格としての歴史から生じているできごとです。

私は、nocteさんがおっしゃるとおり、心理学的援助の資格を作ろうとするのであれば臨床心理学をないがしろにしない方が良いと考えます。それは自明のことだと考えます。国家資格化のために働いている諸先輩もそのことは痛いほどわかっている人たちです。

私たちは、資格を作るという現実の手続きの中で、どうすればその点を守り抜けるのか、骨身を砕いて努力しているつもりです。私たち資格化のための働き手の「努力が足りない」という声も聞きますし、至らない点は申し訳なく思いますが、本当に前線は熾烈です。

交渉相手たちが目の前にいる場所に立った人間にしかわからないニュアンスを、交渉の場に出たことのない人たちにどう伝えるか、そこがとても難しいところだと思います。その伝わり方によっては、前線の働き手たちが、背後の仲間から攻められるという構図が、生じることにもなりがちですので。

投稿: つなで | 2010/05/12 21:22

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/88325/47735271

この記事へのトラックバック一覧です: 資格問題雑考 その2:

« 中間処遇ということ | トップページ | 帰国 »