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2009/10/17

Winnicottと羨望について

 Kleinの重要な概念に羨望がある。「羨望と感謝」の中でKleinはこれについて2つの種類を述べていて、その1つは対象が良いものを持っていてしかもそれを自分に与えないで楽しんでいることであるとしている。もう1つは対象が持っているその良いものを自分に与えることであるという。「良いもの」は自分を育てるミルクであり、乳房であり、子どもを産み出す創造性であり、またペニスでもある。良いものを持っていること、良いものを分け与えることはともに、良いことであるために憎まれ、攻撃され、破壊される。それは自己愛的状態を生み出し、取り入れを阻害し、閉ざされた心的状態への引きこもりをもたらす。Steinerはそれを心的退避と呼んだが、妄想分裂ポジションとも抑うつポジションとも区別されるその状態は自己愛ポジションと呼んでも良いのにと思う。

 その羨望の概念について、Winnicottはどんなふうに取り扱っていたのだろう、というのがこのエントリを書く動機になっているのだけど、頼ったのは「ウィニコット用語辞典」。最終的にたどり着いたのは、1人の人物の思索を、自分が意図した者とは違う角度からの考察に耐えうるように再構成した、この書籍の著者の力量への感心だったのだけど。

 さて、その書籍によるとWinnicottは羨望という概念に対し、明確に反論している。
 羨望には、良いものをそれが良いものであるがゆえに破壊するという明確な意図が存在している。しかしWinnicottが生後3、4ヶ月の絶対的依存と呼んだその時期に、幼児には「自分」と「自分でないもの」を区別することは出来ておらず、したがって良いものを楽しみ、それを独占し、分け与えることも出来る対象やその良いものを破壊するということはできないという。そうではなくて、それは観察者にとってはそのように見えるかもしれない、偶然の、意図されない出来事であったという。そしてWinnicottは、そのような幼児の振る舞いを「無慈悲な愛」と呼ぶ。破壊し、憎む、意図された攻撃性が存在しているのではなく、むしろ思いやるという情緒が、思いやる必要のある自分ではない対象の認知が、まだ存在していないために愛が無慈悲に見えるものとなるとWinnicottは言う。それはむしろ「前慈悲」的なものであるというのがWinnicottの強調するところである。
 この無慈悲な愛という概念は、言うまでもなく後のWinnicottの攻撃性と自己と対象の分化の議論にとって決定的に重要なものとなっていく。しかしここでは話を羨望の文脈にとどめようと思う。Winnicottはこのようにして死の本能を認め、その現れとして羨望を論じるKleinに明確に対立した(かどうかは分からないけど。Winnicottはしばしば言いたいことを言いつつ論争からは身を引いていたように思えるので)。しかし、そこから先の、良いものを破壊することになる個人の心の状態について、それ以上に羨望の主題の下では論じていないようにも思える。むしろそれは、この無慈悲な愛、およびその発展である攻撃性の表題の下に論じられていくように思える(羨望の概念は広いので、ここでは良いものを破壊するという側面に限定して考えている)。

 Winnicottにとって攻撃性は始め、自分と自分でないものが区別されていないために思いやる必要がなく、したがって無慈悲に求める愛であり、また身体に精神が住まうことによって、あるいはその過程で生じる生き生きとした身体的な活動である。それが攻撃的な要素を身にまとうのは、「環境」の抵抗によってである。幼児の活動がどの程度攻撃的なものとなるかは、環境が(おそらくこの場合「対象としての母親」が)どの程度それに抵抗を、あるいは憎しみを与えるかによる。Winnicottにとって、幼児が母親を憎む前に、つまり母親を母親として自分でないものとして認識し、それを憎むだけの意図を持てる前に、母親が幼児を憎む段階があるのである。それはまず「攻撃性とその根源」において導入され、「逆転移における憎しみ」において分析状況に見いだされた発想であり、逆転移として感じられる憎しみは、患者の側の憎しみの投影されたものではなく、愛の無慈悲さ(というよりも思いやりの段階に至っていないこと)による、というのがWinnicottの理解である。

 創造性と羨望の議論に関わるように思えるのは、この母親の憎しみと幼児の不満、そして満足に関する議論である。

 母親が自らの憎しみをそのまま幼児にぶつけることなく、言い換えれば幼児による原初的な攻撃から生き残ることが出来れば、幼児は自らの万能感の外側に、自らの愛とも攻撃とも言えない本能に基づいた身振りによって破壊されることのない、自分でない対象を見いだすことが出来る。あるいは母親の憎しみから生じる幼児の不満足もまた、幼児の万能感の外側に対象が存在していることを幼児に見いださせる。もちろん、これらの状況において実際のところ、対象は幼児が見いだす前からそこに存在していた。しかし幼児にとっては、それは自らが気付き、発見したものである。そのようにして幼児は自らの内側に創造性を持つことが出来る。
 さらに、それより前の段階において、幼児はすでに母親の乳房を自らの万能的世界の中に作り出している。言うまでもなくその母親の乳房はそもそも母親のものであり、母親が幼児のニードをくみ取って差し出したものである。それでも幼児は空想の中において乳房を作り出したと体験しており、それを母親のものだと幼児に言わないでおくことが(もちろん比喩的な意味で)、自分でないものを認識できない段階の幼児が安全に、自らの創造性を楽しめることを保証している。自らを育てる乳房も、対象を作り出す創造性も、こうして繰り返し自分のものとして体験される。
 Winnicottの理論がしばしば抱える逆説はここにも現れているように思うのだけど、絶対的依存の段階において幼児が良いものを感じられるためには、対象の良さが認識されないことが必要である。しかし、そこではまだ自分と自分でないものとは区別されていないために、創造的であることはあっても自分の「中に」創造性を感じることはできない。自分の中に創造性が感じられるためには自分と自分でない対象との区別が必要であるが、その時、対象は幼児にとって無慈悲な愛や原初的な攻撃性に抵抗するものであり、不満をもたらすものである必要がある。しかしながらもちろん、実際にはそうした抵抗や不満は幼児に対して侵入的であってはならない。

 なかなか羨望にたどり着かないけれども、ここで注目されるのは、母親が侵入的であることではなく、むしろ満足をもたらすことについてのWinnicottの議論である。幼児が創造性を自らのうちに体験するためには、抵抗し、不満をもたらす対象が必要であった。絶対的依存から抜け出そうとしている健康な発達を遂げつつある幼児にとって、満足がもたらされるということは、努力なしに、つまり幼児の創造的な身振りなしに満たされる体験であり、それは「黙らされる」体験であるとWinnicottは言う。ここでもWinnicottは環境の要因を取り上げるのだが、幼児が満足している限り、無慈悲な愛も原初的な攻撃性も見いだされず、母親が安全である。そのような母親の不安感によって幼児は満足させられ、黙らされるのだと言う。それは自分と自分でないものとが分化する過程を阻害する。「交流することと交流しないこと」の中でWinnicottは、対象を拒絶することによって対象が創造されるという逆説を持ち出し、ここにおいてコミュニケーションを楽しむことのできる自己と、その逆に決してコミュニケーションすることなく外界から孤立したパーソナルな自己の核とが生じることを述べている。私が羨望の概念に関わると考えるのはこの部分であり、対象が与える満足を拒絶するのは、それがうらやましくて仕方がないからではなく、むしろそれによって自己の核が生まれることがなくなるからであるとWinnicottの立場からは理解できるのではないのだろうかと思うのである。
 KleinとWinnicottの理論が異なるのはもちろん死の本能を認めるかとか、良い対象と悪い対象の分裂をどのように捉えるかとか、環境の要因を認めるかとかいうところにも見られるが、孤立した自己の核という引きこもったスキゾイドな心の部分を健康的なものとして認めるかどうか、というところにもあるように思える。Winnicottにとって、満足させる、良い解釈は、自分と自分でないものの区別を危うくし、自己の核を傷つけ、あるいは消し去り、黙らせることになり、存在することの連続性を危機に陥れうる。自己の核は例え母親によって差し出された乳房によって可能になっているとしても、自らが作り出し、自らが所有し、誰とも共有されないものとして隠されている必要がある。Klein派にとって、健康であれば、自己の核は(そう呼ぶことが可能であるとすれば)、対象の良い側面と悪い側面が統合され、同様に統合された自己とともにあるところに成立する。内的世界において自己は対象とともにあり、そうである限りにおいて、外的な対象との交流は自己を脅かさない。それは自己を育て、学ばせる。交流しないことは内的世界における自己と対象の関係が何らかの形で悪性の関係であるためで、自己愛と同様にスキゾイド状態も病理である。それは母親の問題によるのかもしれないし(ということを実のところKleinはしばしば書いているのだけど、あまり取り上げられない)、幼児の側の体質的な問題によるのかもしれない。体質的な問題にはもちろん、強すぎる死の本能と羨望が含まれる。いずれにしても交流しないことは(そう言ってよければ)許容されない。Winnicottにとって解釈を受け取らないことはある部分では健康なことであり、Klein派にとっては例えば知ろうとしないことである。
 ここにおいてWinnicottは解釈する分析家を不安のために幼児を黙らせようとしている母親として捉えていると言うことが出来るのかもしれない。羨望に見える良いものの破壊はWinnicottの立場からは自己愛的であるのではなく、スキゾイドの状態であると言えるのかもしれない。

 もちろんどちらの立場が正しいのかは分からない。ここまで書いてきたような私の理解が正しいのかということだっておぼつかないし、原初の心の状態を、羨望に見える心の動きを、それとして断言できるような気もしないのだけれども、けれどもきっとそれぞれの理解はそれぞれの臨床での経験が教えてくれたところに依拠しているのだろうし、私の理解は私と、私とクライエントとの間と、その間で生み出されるのだろうと思う。こうして書けば書くほど自分の理解の浅さを露呈することになっているようにも思うのだけど、それでも私が書かなければ私にはなれないのだし、今のところWinnicottの書いたことから再構成されるWinnicott的な羨望の理解は、といってもその中の良いものを破壊するという側面についてだけなのだけど、こんなふうになるのではないかと思っている。

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