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2009/09/09

資格問題雑考

 某所で某氏からコメントを求められていたのだけれども、なかなか私の手に余る問題であったため、伸ばし伸ばしにしてきてしまっていた。でも、そろそろ何か言わないとと思って書き始めているのだけれども、発端は「麦の穂を揺らす風」のエントリ。そこから妥協ということについて、資格問題と絡めた話をされたというのが前置き。私はエントリを書く際に、だいたいの結論を予感しながら書くことが多い。予感という言葉を使うのは、結末がどういったものになるか、実際に書き始めて言葉にしてみないと分からないことがしばしばあるからで、でも、このエントリについては自分が一体どこにたどり着くのかも分からずに書いている。分からないからこそ、伸ばし伸ばしにしてきたわけだ。でも考えることをなら何とか出来そうな気がしてきたので、何とか書き始めてみようと思う。

 某所での某氏の話というのは、資格問題にはある程度妥協が必要なわけで、程々のところで決着をつける必要があるのではないか、という趣旨であったと思うのだけど、それについてコメントをする前に、私はそもそも資格問題の何が問題なのかあまりよく分かっていなかった。資格問題が動く、と言われると、その度に国会が解散になったりするあたりに感心をすることしきりだったのだけれども、多分そういう問題でもない。今でも実際のところ何が問題なのか分かっていないのだけど、それは私が大学に所属しており、外で臨床をやっている際にも精神分析界隈で関わりのある医師から誘われて勤務していることが関係していると思う。臨床心理士という資格について、あまり意識しなくてもやっていけているのだ。資格試験については不毛だなと思いながらも意識してしまうけれども。
 しかしながら、大学での仕事は臨床心理学に関わるものではあるし、刑務所で働いているのだって臨床心理士会を通してやってきている仕事ではあるわけで、私が普段から臨床心理士であることを意識していないからといって、資格の問題と全く関わりなく生活しているわけではない。多分、もっと考えた方が良いのだとは思う。

 で、考えてみるのだけれども、私が資格問題について考える時にいつも思うのは、臨床心理学の独自性とは何かということだ。資格問題とはそれに関わる問題であると思っていた。医療行為と臨床心理行為、というのが現代的な言い方であるのかもしれない。もちろんこの対比には、資格問題が常に医師という資格、あるいは医療の現場での専門性に関してどのように定義されるのか、という問題意識が横たわっていると思っている。だから、ここでの話もその領域を中心に展開することになる。
 で、その辺で私にはよく分からなくなるのだ。医師が行うpsychotherapyと心理士が行うpsychotherapyとは何か違うのだろうか。もしもいつか、看護師や社会福祉士や精神保健福祉士がpsychotherapyを行うようになったとして、それはまた違うものになるのだろうか。あるいはそれは医療行為であって、医師のみが行うべきだというような、欧米で言えばずっと昔になくなった発想を持ち込むべきなのだろうか。あるいは、そうした問題設定自体が間違っているのだろうか。psychotherapyの問題だけを考えていたのでは、足りないのだろうか。そうであるとすれば、資格問題とは何が問題なのだろうか。そんなことを考えて思考が停止する(ほら、結末が見えないわけです)。

 そう思ってここまで回答を延ばしてきたのだけれども、せっかく声をかけていただいたのにそのまま、というのもどうかと思って今日まで考えをひねり出してみたのだけれども、そうした時に私が考えついたことは、資格というものの本質は多分、「質」の確保と「職」の確保に関わるものなのだろうということだった。資格を有することが一定の水準の技術や知識や倫理を備えていることを保証し、それに基づいて一定の業務を執り行うことが可能とされ、それによって報酬を受け取れる。それを受けることで利益を得る人がいて(心理臨床においてはクライエントとか患者とか利用者とか言われる人々だ)、それを行うことで利益を得る人がいて(つまり心理臨床家だ)、それがどちらにとっても不当なものとならないように程良いところで釣り合いをとっているもの、それが「資格」というものではないだろうかと思っている。
 そこで、先ほどの臨床心理学の独自性、つまり心理臨床に関する一定の「質」というものを規定することになる土台であるところの専門性とは何か、というところに戻るわけだ。私はずっと心理療法に携わってきて、今でも基本的には心理療法家として心理臨床の場にいる。なので、その立場からしか考えることは出来ないのだけれども、というかそう限定することでよく分からない領域に関するよく分からない結論を得ることを防ごうと思うのだけれども、psychotherapyというものに関して考える限り、私は医師と心理臨床家と、将来訓練を受けてここに参入してくるかもしれない他の職種との間には、ほとんど違いはないと思っている。psychotherapyの上手な人もいればそうでない人もいるし、それはどの集団でも同じだろうし、それぞれの持つ理論的、実際的背景や基盤の違いがpsychotherapy過程に入り込んでくることは避けられないだろうけれども、(きちんと訓練を受ければという前提で言えば)それがpsychoterapyである限りは大きな違いはないと思う。そうでなければ、例えばpsychoanalyticな psychotherapyはpsychoanalyticなpsychotherapyにならない。cognitiveなpsychotherapyはcognitiveなpsychotherapyにならない。Rogers的な意味でのcounselingだってRogers的な意味でのcounselingにならないだろう。少なくとも学派の違いに比べれば、職種の違いは小さなものだと思う。
 では、それが医療行為かと言うと、それはどうかなと思う。
 あらかじめ断っておくけれども私は医療行為と言うものがどんなものか知らないし、それを調べるだけの余力もない。とりあえずWikipediaあたりから拾ってくると

医師が行う行為が医療行為とみなされるためには、以下の要件をみたさなければならない。  治療を目的としていること  承認された方法で行われていること  患者本人の承諾があること
ということのようで、とりあえずのところそうなのか、と思っている程度の理解しか持っていない。なので、以下はその程度の理解に基づく話ではあるのだけれども、例えば自分の人生について振り返って自分のことをよく理解したいという人がいたとして、そのために行う私たちの作業は「治療」であるだろうか。例えば、仕事が長続きしないという人がいたとして、その改善のために行う私たちの作業は「治療」であるだろうか。仕事が長続きしないために生活が出来なくて盗みを犯してしまうという人であったらどうだろうか。そうしたことを考えた時にそれはtherapyという言葉を使っているとしても、本当に治療なのだろうかということを考えるのだ。「治療」であるとすれば、何を「治療」しているのだろうか。  そこで行われるのと基本的には同じ方法を、それでは、うつ病の改善のために使うとどうだろうか、とも思う。仕事を続けているうちに昇進が決まって気持ちが沈む。不眠、食欲不振、気分の日内変動が見られる、そういった人との作業であるとどうだろうか。その場合は、一般的に言って治療であるだろう。うつ病の治療である。まあ、そうだろう。人前で喋ったりすることができずに仕事が続かない社交不安(社会不安)障害の人であればどうだろうか。治療だろうか。病名がついていれば治療で、そうでなければ治療でないのだろうか。まあそうなのだろう。つけられた病名に包含される症状の改善を目指すことは治療なのだろう。  それでは、それが治療であるとして、そこで行われる作業は上の例と何か本質的な違いを持っているのだろうか。ここでは精神分析を持ち出すよりも認知療法を持ち出した方が話がしやすそうなので、そうするけれども、例えばその人には、どのような認知のパターンがあるのか、どのような不合理な信念があるのか、どのような自動思考がそこに生じるのか、それを止めるためにはどのような課題を選択しうるのか、かなり単純化した議論ではあるけれども、そうしたことを考えていくという方法論は生き方に悩む人と病気と診断される人とで何か異なるのだろうか。せっかくなので精神分析的な視点からも言えば、その人がどのような対象関係を持っていて、それがどのように今の顕在化している問題や主訴につながっていて、それがどのように今ここでの関係に転移して、それをどう取り扱っていくのか、という方法論は、自らの生き方に悩む人と病名がついた人とで何か変わるのだろうか。  そんなことを考えると、psychotherapyが医療行為であるとはあまり思えないのだ。

 そうした私の考え方に何か落とし穴があるのかもしれないけれども、こうやって考えてきた時に、私には私たちの専門性というのが再びよく分からなくなる。それは医療行為にも思えないけれども、それじゃあ臨床心理学がそれを独占すべきなのか、それは臨床心理学の独自性によるものであり従ってそこには臨床心理学の専門性があるのですよと言うべきなのかと言うと、そうも思えないわけだ。
 いや、困った。
 困るべきなのかどうかも分からないあたりからして困った(ほら、やっぱり結末が見えない)。

 でも困ってばかりはいられないので何か結論めいたところにたどり着きたいと思うのだけど、そうやって考えて来た中で思うのは、Wikipediaから持ってきた医療行為の要件もそうなっているのだけれども、「目的」と「方法」を分けて考えることかもしれない、というだ(って断定してるけど、あんまり自信はない)。つまり、psychotherapyそのものは、つまりその原則や方法論は病名のついた人にもそうでない人にも適用できるものなんだろうと、そういう意味でそれを医療行為とは言わなくても良いのではないかと、ただそれが病気の治療を目的とした時に、つまりその方法が治療という目的と組み合わさった時に医療行為となるのではないかと、そんなことを思ったりする。極端な話(そういうことが実際的に可能かどうかは分からないけれども)、うつ病としての症状を呈していても治療を受けるかどうかの選択権は本人にあるだろうし(原則的には)、そこで本人が治療を拒んで自分の人生を振り返りたいとか、考え方を直したいとかいうことを求めた時には、そこで行われるpsychotherapyは医療行為とは言えないのかもしれない、ということだ。もちろん実際的にはそうした本人の希望そのものが治療への抵抗である可能性もあるし、それもまた治療の枠組みの中で取り扱われるべき問題かもしれないので、何らかの疾患が認められそうな場合には、まず診察を勧めるというのが私たちが今でもやっていてこれからも取っていく態度であるだろうと思うのだけど、話を単純化するために極端にすれば(それが成功しているかどうかも心許ないのだけど)、治療という目的の伴わないpsychotherapyは医療行為とはしない、という考え方はありうるかもしれないと思う。

 それが多分、折り合いのつく地点ではないかと思うのだ。この話では私たちの専門性をまだうまく考えられてはいないのだけれども、少なくともpsychotherapyに関する医療行為と臨床心理行為の境界線は、そうして診断の有無とその治療という目的の有無によって決めることが出来るのではないかと思うし、それが私たちの行う作業が、医療の現場では医師の指示の下での活動になって、そうではないところでは医師の指示の下での活動にはならない理由の1つの立脚点にならないかと思うのだ。そう考えた時に、これは別段、妥協でもないし、少なくとも医療行為というものの要件というものを考えた時にはまあそんなものかな、と思ったりするのだけれども、どうでしょう。一体どこまで病名がついていくんだろう、みたいな懸念は、資格問題との関わりだけではなく、あるのだけれども。

 といったところで、この辺が何か落とし所にならないのかなというのが私の考えです>某氏(いえ別にコメントを求め返しているわけではないのですが)。

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コメント

資格についての考察を読ませていただきました。読んでいて、自分の考えも整理することができました。

現在、国家資格化がまた急速に進んでおり、その中でさまざまな情報が飛び交っています。

その中に、2009年現在推進されている国家資格への要望が、「診療補助職」すなわち、心理の仕事の一部を医行為の一部とするという資格の案だという噂があります。

たしかに、医師の団体には、心理の仕事の一部を医行為に含めることを要望される方があるかもしれません。さまざまな場で、その立場の方々が発言されているということもあります。

しかし、2005年の法案作成作業の段階で、心理の仕事は、物理的に限定して医行為の範囲を定めることが難しいということで、「診療補助職」にすることは無理であるという厚生労働省側の判断があったと聞いています。

つまり、基本的には、どんなに医師の方々が要望されようとも、心理の仕事を「医行為」に含めることは、現在の法律のありかたの中では難しいということのようです。

全心協は2005年の春までは、医行為に含めることができると言っていました。しかし、2005年の夏に法案ができあがったところで、それが無理だとわかったのです。

そして、そのことが「汎用性」の「ひとつの資格」を作ることが可能であるという、今日の流れにつながったと思っています。

少し、説明させていただきたくて書きました。失礼します。

投稿: つなで | 2009/12/27 10:45

>つなでさん


 コメントありがとうございます。そうですか、すでに心理の仕事を医療行為の範囲に含めることは難しいと言う判断がなされていたのですか。そうすると私の考えていたことはすっかり時代遅れになっていたのですね。
 そのような中でまた診療補助職にするという話が出てきているのもややこしいことではありますが、それは別にして、そうすると今問題になっているのはどういったところなのでしょう。二資格にするか一資格にするか、というところなのでしょうか。医療行為でないとなった段階で二資格にする意味も良く分からないのですが。そういうところの問題ではないのでしょうかね。
 どうやら、もう一度いろいろな方の書かれているエントリを読み返してみる必要がありそうですね。ありがとうございました。

投稿: nocte | 2009/12/31 15:16

nocteさん

はい。「心理の仕事を医療行為の範囲に含めることは難しいと言う判断」が2005年時点であるのですが、心理職や医師の中にもまだそれを知らない方がたくさんおられるようです。

2009年末の時点では、心理学界全体で「ひとつの資格」を作ろうということが、日本心理学諸学会連合理事会において決議されています。

その動きに呼応して、日本臨床心理士会も国家資格に対する考え方を11月3日に代議員会で採択しています。私のブログにその「考え方」に関する記事を書きました。
http://piece-by-piece.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-2031.html

この「ひとつの資格」には、学部+修士のコースと、修士の部分を一定の要件を満たす現場研修に変えるコースの2つのコースを想定しています。完全に学部+修士コースだけにできなかったのは、学部4年卒で受験できる公務員の専門職との整合性を考えたものです。基本は合計6年での養成になっています。

最後に残っている論点は「カリキュラム」と「名称」です。

カリキュラムの中に、どの程度基礎心理学を含めるのか、どんな形で臨床実習など現在の臨床心理士指定大学院の成果を生かすか、その調整はまだこれから行われる予定です。とても大事なことで、nocteさんのように、臨床と基礎の両方に堪能な方に、ぜひお知恵をいただきたいところです。

「名称」については、臨床心理士側は当然「臨床心理士」を要望しているわけですが、心理全体の「ひとつの資格」ということで、「心理士」という案も出ています。しかし、「心理士」というと、基礎心理学に重点があるように聞こえるということで、臨床心理士側からの反論も起きています。何か良い案があるといいのですが。

投稿: つなで | 2010/01/05 00:30

>つなでさん

 ありがとうございます。
 なるほど、争点(というべきなのかどうなのか)は、コース、カリキュラム、名称なのですね。だんだんと輪郭が分かってきました。ちょっとまた別にエントリを立てたいと思います。ありがとうございます。

投稿: nocte | 2010/01/07 15:53

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