« 律義な大会発表審査 | トップページ | Googleブック検索というもの »

2009/07/12

犯罪報道を聞く

 大阪のパチンコ店で放火事件があった。刑務所で仕事をしていると、受刑者は時折こうした犯罪報道について語る。刑務所内で回覧される新聞で見る人もいれば、ラジオ放送の時間のニュースで知る人もいる。毎日どこかで何かの犯罪が起きているけれども、あるものはあまり関心を引くことなく記憶の彼方に流れ去り、あるものは彼らの心に深くを下ろす。例えばそれが今回の放火事件であり、昨年の秋葉原の殺傷事件だ。

 報道が過熱し、人々の耳目を集めれば集めるほど、事件は記憶に残る。受刑者がしばしばこうした大きな社会的注目を集めた事件について語るのは、あるいはそうした情報への接触頻度や接触時間のためかもしれない。すべての受刑者がこうした事件を気に留めるわけでもなく、すべての受刑者が一様にこれらについて語るわけではない。それでも、こうした事件について自ら語る受刑者の口ぶりはみな同じような悲壮感をたたえている。そこに程度の差はあるにしても。
 秋葉原の殺傷事件(あるいは通り魔事件)が発生した際にも、しばしば言われたことだが、こうした犯人たちに共感できるところが彼らにはあるようだ。しかし同時に、「人を殺しちゃいけない」とも彼らは言う。前にも触れたことがあるように、犯罪者とされる人々の多くが窃盗罪であり、殺人などに至る人はそう多くはない。犯罪にも序列があり、彼らの中で最も軽蔑されるもの、人として蔑まれるものが性犯罪である(性犯罪の中にも序列はある)。窃盗の中でも万引き、賽銭泥棒などは罪の意識が低い。強盗や恐喝はそれよりも罪の意識を持たれる。人を傷つけることには抵抗があり、人を殺すことは一線を超えることだと彼らは感じる。その序列は塀の外にいる私たちとそう変わるところがない(性犯罪にはこの序列に乱れが見られる)。違うのはどこに境界線が引かれるかという問題であり、それが量的な問題であるのか、質的な問題であるのかは自由に判断してもらえればよいと思うけれども、人は殺してはいけないものだという意識は彼らにもある。
 それでも彼らの言葉は批判的な色合いを持っているだけではない。共感できるところもあるからだ。気持ちとしては分かる、というよりも実体験として同じような体験を共有していると言ったほうが良いのかもしれないけれども、それは彼らにとって他人事ではなく、それでも人を殺すこと、しかも無差別に殺すことを正当化してはいけないと彼らの心の中の何かが言う。その狭間に悲壮感が漂う。それは何だろうと思っていた。

 刑務所に入ってくる人々の多くが、その人生の途上で頻繁に仕事を失っている。同時に人間関係を失っている。もちろん収入も失い、人並みの生活を失い、やがて人間としての尊厳も失っていく。その原因を本人に求めることも可能だし、社会に求めることも可能だし、社会という言葉の射程をごく狭いところに絞ることも大きく広げていくことも可能だけれども、主観的な体験として彼らはそうして追いつめられていく。窃盗や強盗は生き延びるための手段になり、捕まって刑務所に入ることは成り行きとして必然となり、ある部分では救いでもある。
 それは例えば、コウモリみたいなものかもしれない。右に動物、左に鳥。どうすれば良い?

 事が終わり、振り返って彼らが手にするものは、自分には居場所がないという現実なのだ。

 受刑者たちが大阪パチンコ放火事件や秋葉原殺傷事件の犯人に共感しているのはこの部分のように思える。そこに彼らの悲壮感がぬぐいきれない宿命的な靄のように立ちこめており、それを媒介にして事件のニュースが深い根を下ろす。王蟲の亡骸を苗床にして腐海の植物が芽を出すように。
 そうした受刑者の少なくない割合の人々が自殺企図を経験している。少なくとも私が話をした人に限っての話ではあるが、刑務所の中であれ外であれ、何らかの形で自殺を決意し、あるいは実際に試み、直前でそれを逃れ、あるいは失敗した経験を有している。自殺者が毎年3万人を超える日本の中で、経済的、生活上の問題を理由にした自殺とされるものは健康問題に次いで多い。追いつめられ、居場所をなくし、生きる希望を失って彼らもまた自殺を図った。生き延びたことが救いであったのかどうか私には分からない。けれども、事件の衝撃が彼らに深く響くもう1つの理由はここにあるのではないかと私は思う。
 大阪パチンコ放火事件や秋葉原殺傷事件における無差別な殺人は自殺ではないかと私は思う。彼らと話していると、その悲壮感の中にそうした気配を感じるのだ。それは私の思い込みであるかもしれないし、もう少し優しい言い方をするなら思い違いであるかもしれないけれども、私には彼らの言葉に含まれる共感と批判と悲壮感とが、自らの自殺と事件の犯人における他殺との同一視を表しているように見える。何かの間違いで自分たちもそちらに行っていたかもしれない、と彼らは言う。文字通り亡骸を苗床にして、事件の記憶はその森を広げていくように思えるのだ。

 もちろん、そうは言っても、彼らは無差別に人を殺したりはしない。少なくともこれまでのところしていないし、今のところ殺人と窃盗の間に明確な一線を引いている。その一線はあまり簡単に超えられるものでもなく、それは人を殺すよりも先にやれることがあって、例えば生きるために窃盗をして刑務所に入ってくることができるからだ。窃盗や強盗は逮捕につながり、刑務所への収容に至る。それは必然であり、救いでもある。
 その意味で、ニュースになった事件の犯人たちを卑劣であると言ったり、身勝手であると言ったりすることは、ある意味正当であると思う。自分が死ねば良いのに人を殺すなんて卑怯だと言ったり、臆病だと言ったりすることもできるだろうと思う。
 その通りかもしれない。
 彼らが感じていると私が感じているような、自殺と他殺の同一視やそこに共有された居場所がないという現実の知覚が仮に事実であるとすれば、報道された事件の犯人たちが自殺の代わりに他殺に至るのは、そうした犯人が臆病であるからだろうと私は思う。自分の苦しみを自分のうちに抱えておけず、それを誰かに押し付け、誰かを殺すことで自分を殺すことに代えている。だからこうした事件の犯人は、「殺すのは誰でも良かった」と言う。Fonagyがalien selfとして記述し、外在化すると呼ぶ心的過程がここにある。あるいはKlein派が投影同一化と呼ぶ過程がここに展開している。自らの消し去りたい無力感を、喪失感を、絶望感を、そうした自己を、自らの死によって消し去るのではなく、それを他者の中に押し込み、抹殺しようとする。誰かが無力で、喪失し、絶望しているように思えるだけなら、扱いの難しい人としか周りからは見られないかもしれない。けれども、そうして他者に投げ込まれた自らの分身を消し去らなければいけないという恐怖感に駆られれば(そしてその恐怖感は、そうでもしなければ押し込んだはずの自己がまた戻ってくるように見えるところからくるのだと思うけれども)、自らの分身に対して操作的な関係を持たなければならなくなる。もちろんこの場合の操作とは殺すことである。自殺は自殺ではなくなり、他殺にすり替わる。けれどもそれもまた自殺なのだ。
 自殺は孤独である。引き返してくる人が多いのは、死を恐れると同時に一人で死ぬことの孤独に耐えられないからでもあるだろうと私は思っている。報道される事件の犯人たちにおいて自殺が他殺にすり替わるもう1つの理由は、それがこの孤独を打ち消すからではないかとも思う。集団で自殺をする若者のニュースが一時期盛んに報道されたけれども、誰かが一緒に死んでくれることは死ぬことの恐れを(それがどのようなものであれ)和らげてくれるのだろう。自らの自己を殺しながら、無差別に他者を殺すことは、ある意味では無理心中のようなものかもしれない。それによって一人で死ぬことを免れることができるのだ。そのようにして自殺は他殺を生み出し、でも結局のところ事が終わって犯人が手にするのは、再び自分が居場所を失っている現実でしかない。
 もしも受刑者と報道された事件の犯人との間で共有されていると私が感じているものが事実であるとすれば、だけれども。

 私たちはその絶え間ない繰り返しに何かができるのだろうか。

 今年私は(というよりも私たちは)、刑務所を出て行き場をなくすことが目に見えている人々のための居場所を提供するNPOを立ち上げる。それが軌道に乗るのか、社会に対して何かをもたらすのかは分からない。おそらく大勢としては何ももたらさないだろう。けれどもいつまでも手をこまねいてばかりいるわけにもいかない、と長くこの業界に携わってきた人たちは考えており、こうした組織はいくつかの場所で細々と立ち上がり始めている。そのどれもが芳しくない船出をしているけれども(当然のことだ、犯罪者に近所に住んでいて欲しくないと思うことを私は責められない)、いつまでも過熱した報道だけでやり過ごすわけにはいかないのだ。
 犯罪はなくならないし、人が人を殺すこともなくなりはしない。戦争はなくならないし、世の中から不幸が消えることはない。けれども、それに対して何かをしようという試みだってなくなるわけではない。それは私たちの日々の営みの、止むことのない風なのだ。

|

« 律義な大会発表審査 | トップページ | Googleブック検索というもの »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/88325/45604964

この記事へのトラックバック一覧です: 犯罪報道を聞く:

« 律義な大会発表審査 | トップページ | Googleブック検索というもの »