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2009/06/07

システムと個人

 「麦の穂をゆらす風」という映画がある。あまりここではこうした話をしないのだけど、良い映画であったと思うので、一言記しておこうと思う。

 覚えている限りのあらすじは次のようなものだ。

 イギリスからの独立をめざす気運が高まるアイルランドに2人の兄弟がいた。兄テディは独立を求めてイギリスと争う義勇軍に入隊しており、弟デミアンはイギリス軍と闘うことの無力さを感じ、医者をめざしてロンドンに旅立とうとしていた。イギリス軍の暴行によってシモーネという女性の弟が殺された、その葬儀の日だった。列車を待つ駅で、デミアンはイギリス軍を輸送することを拒否する運転士が暴行を受けるのを目撃した。運転士を助け、列車を見送ったデミアンは、引き返してテディたちの待つ義勇軍に加わった。
 イギリス軍による弾圧は厳しく、それを退けようとする義勇軍の襲撃も激しさを増した。イギリス軍を襲撃し、山野に潜んでいた彼らは、ある日密告によってイギリス軍に捉えられた。放り込まれた牢屋でデミアンは運転士ダンと出会った。尋問を受け、死刑になる直前で逃げ出すことのできた彼らは、自分たちを密告した少年を探し出した。人里離れた山小屋に密告者を連れ出し、デミアンが銃を構えた。少年はデミアンの幼なじみであり、デミアンは自ら処刑役を引き受けた。銃弾はあっけなく少年の胸を貫き、医者を志したデミアンの手は仲間の命を奪った。
 デミアンはシモーネに少年の母親に会いに行ったことを打ち明けた。遺言を渡し、遺体を埋めた場所まで母親を連れて行ったデミアンに母親は言った。「二度と顔を見せないで」。
 戦闘は膠着状態に入り、やがて講和条約が結ばれた。戦争は終わり、アイルランドは自由を勝ち取った。デミアンはシモーネと結ばれ、平和が訪れた。かに見えた。講和条約はアイルランドをイギリスの自治領とするものであり、イギリス国王への忠誠を求めるものであった。テディは講和条約を支持した。それによってこれ以上の戦闘の激化が避けられるからだ。イギリスの戦力はアイルランドの比ではなく、戦闘が本格化すれば被害の拡大と完全な支配とが訪れることは明白だった。それでもデミアンは講和条約に反対した。独立のための戦争は一部のものだけが富を独占し、貧しいものが搾取されることを改めるために行われてきたからで、条約は結局この不平等を是正するに至らないためだった。それでは闘ってきた意味がなくなるとデミアンは訴えた。ダンもそれを支持した。今ある部分的な独立を受け入れなければ、これまで闘ってきた意味がなくなる、とテディは訴えた。
 そうして兄弟は分裂した。
 分裂はアイルランド国内に広がっていた。
 その帰結は内戦である。講和条約を受け入れイギリスに従う自由国軍は、次第に講和条約を拒絶しイギリスからの完全な独立と貧しい人々の幸福をめざす反乱軍を圧倒していった。抵抗を続ける反乱軍として、デミアンとダンはテディの率いる軍隊の基地を襲撃し、武器を奪った。逃げ出そうとする彼らを自由国軍の兵士が銃撃し、ダンが銃弾に倒れた。ダンを助けようと手を上げて銃撃を止めようとしたデミアンはそのまま牢に放り込まれた。その牢にテディが訪れた。釈放と引き換えに仲間の居場所を教えることをテディは迫り、頭を下げてデミアンに懇願した。苦悩に満ちたテディの申し出をデミアンは断った。それでは闘ってきた意味がなくなるからだ。
 翌日、デミアンは処刑された。処刑は自らその役を引き受けたテディの手によって行われた。銃弾がデミアンの命を奪い、崩れ落ちたデミアンの身体にすがってテディは泣いた。デミアンの手にはシモーネから送られたネックレスが握られていた。テディはデミアンの手をほどいてネックレスを取り出し、遺言ととともにシモーネのもとにそれを届けた。手紙を開き、それが何であるかを知ったシモーネは泣き崩れながらテディに言い放った。「二度と顔を見せないで」。

 繰り返される悲劇はなぜ繰り返されるのか。戦争はどのようにして個人をその悲劇の中に巻き込んでいくのか。村上春樹は先のエルサレム賞の受賞スピーチで壁と卵の話をした。彼は常に壊れやすい卵の側に立つと言った。卵とは個人であり、壁とはシステムである。その言説は私にFreudの心的装置の図を思い出させる。個人はシステムと対立する。システムに巻き込まれ、壊れやすい卵は個人であることを失う。戦争の悲劇はシステムのもとに生じる。デミアンは幼なじみの少年を撃ち、テディはデミアンを撃った。幼なじみは密告をし、デミアンは基地に侵入して武器を奪おうとした。裏切り者を撃たなければ彼らが属している組織は崩壊の危機にさらされるからである。そこにどれほどの苦悩があろうとも、処刑は行われなければならない。システムに巻き込まれるとはそういうことである。実際のところ少年1人、デミアン1人を見逃したところで大勢に影響はないかもしれない。彼らもまたシステムの一部であり、システムと並ぶほどのものではないからだ。アイルランド義勇軍が相手にするのはイギリス軍であり、自由国軍が相手にするのは反乱軍であり、どちらも個人を相手にはしない。けれども、システムに立ち向かう個人を見逃すという行為そのものは、彼らが属している組織がそのように成立しなければならなかった信念や哲学、組織がそれとして組織化されているというアイデンティティを脅かし、攻撃することを許容することになる。組織は維持されなければならない。そうでなければ組織である必要はないからだ。システムとはそういうものだ。システムを維持するために、個人はシステムの前で砕かれる必要がある。処刑をする者も処刑をされる側も、システムのもとでそのように配置されているのである。
 システムは固く、高くそびえて、卵を壊してしまう。そのシステムはどこからやって来るのだろう?
 おそらくどこからもやって来はしない。対立する個人もシステムも、自我と超自我のように第3の要素を共有しているのだ。Freudは超自我を自我と対立するものとして描いた。超自我は自我理想として「父のようになれ」と命じ、禁止によって「父のようになってはいけない」と宣言する。それは「父のようになりたい」というエスに由来するエディプス・コンプレックスの抑圧から生じた2つの命令である。エディプス・コンプレックスは抑圧を被り、超自我を形成する。超自我はエスから生まれたものであり、エスは知覚装置としての自我と実際のところつながっている。Fairbairnは「分割して統治せよ」という原則でこの分裂を描写し、そこに対象関係論が生まれるわけだが、システムとはそういうものである。システムは個人をして「このようになれ」とそれ自身への同一化を図らせながら、「このようにはなるな」とそれ自身と並び立つことを許してはいない。強く惹きつけておきながら、同時に強い拒絶を示し、そのことを通じて個人が個人であることを打ち砕こうとする。システムのもとで幼なじみを撃つデミアンも、デミアンを撃つテディも、どちらもがそれぞれに組織への忠誠を誓い、同時にそこから逸脱することは許されていないのである。自らの手で処刑を行うことが唯一個人としての抵抗ではあっても、処刑という事実の前で、それはささやかな抵抗でしかない。けれども彼らがなぜ組織に参加し、あるいはその組織を設立したかを考える時、自由を勝ち取り、独立をめざす思いのもとにデミアンやテディが自らの選択によってそこに身を投じたことにも思い至るだろう。システムと個人は第3の要素として信念を共有しているのである。もしかしたら意識された信念の奥に、願望や恐れや破壊性などを有していることもあるかもしれない。それでもシステムはどこからやって来るのか、という問いを立てた時、私はシステムはどこからもやって来ない、ということを言う必要があると思う。その問いは立てられない。なぜなら、システムもまた私たちなのだから。

 けれども、こう問うことなら可能かもしれない。どのようにしてシステムは固く、高くそびえることになるのか?
 なぜデミアンは幼なじみを撃ってまで組織を維持しなければならなかったのか。なぜテディは弟を失ってまで自由国軍であらねばならなかったのか。残された自由が自らの手で処刑を行うという選択だけであるような状況に、彼らを追いつめたのは何だったのか。そう問うことはできるかもしれない。そしてそれに対する答えは、分裂であると思う。デミアンが完全な自由を主張し、テディがイギリスに従うことを強調した時、分裂は決定的なものだった。一方は個人がシステムに並び立つことを目指すものであり、他方はシステムに巻き込まれることを許容するものであり、そのそれぞれが高度に組織化されていったところに分裂が生じた。この文脈におけるシステムとは彼らを翻弄するイギリスという国を指しているけれども、分裂が決定的になった時には新たなシステムがそこに生じた。それが自由国軍であり、反乱軍である。自由国軍は自由国軍として、反乱軍は反乱軍として、それぞれが生まれた理由を持ち、その理由のためにシステムは維持される。そのようにして固く、高い壁が生まれることになる。システムを固く、高くそびえさせるのは、その分裂の激しさである。どちらか一方に比重が置かれ、他方が排除され、そこにほどほどの折り合いは存在しない、そういった分裂の激しさである。しかし、忘れてならないのは、この分裂によって生じたシステム間の葛藤という内戦において、イギリスという第3の要素は背後に退いてその影を見せることはない、ということである。分裂とは2つに分かれた何かではなく、その分裂をもたらした第3の要素も含めて分裂であるように思える。もっと言えば2つに分かれた何かの背後で、それをもたらした第3の要素が隠されていることが、分裂というものなのかもしれない。「二度と顔を見せないで」。苦痛に満ちた言葉は、それ自体が新たな分裂のきざはしであり、責めるものと責められるものだけが置かれることで分裂の姿をあらわにしている。そのためにやがて悲劇は繰り返される。私たちが固く、高くそびえたシステムの壁の前で打ちのめされようとしている時、1つのシステムが別のシステムとの分裂にさらされている時、私たちは隠された第3の要素を見つけ出す必要がある。意識の彼岸にそれを見つけ出し、日の当たるところへ引き出してそれが何であるかを知る必要がある。悪意ある何かかもしれない。恐ろしい何かかもしれない。どん欲な願望かもしれないし、深い愛情であるのかもしれない。それがどんなものであろうと、システムに振り回されないために、私たちが私たち自身に飲み込まれないために、それを知る必要がある。

 それで統合が図れるのだろうか?
 そんなことはない、と私は思う。私たちが統合と呼んでいるところのものは、実のところ折り合いでしかなく、そう呼んで良ければ妥協と言っても良いかもしれない。イギリスとアイルランドに対立をもたらした歴史的な事実に思い至ったところで、自由国軍と反乱軍の分裂をもたらしたイギリスというシステムに目を向けたところで、裏切る者との間の緊張ある関係をもたらすものに気付いたところで、状況はそれほどよくならないかもしれない。最善の方法が取られたとしても、それは両者が痛み分けをする形になるだけなのだと思う。どちらの要望も、どちらの主張も、どちらの信念も、どちらの恐れも、完璧に満たされることはない。程々のところで折り合うか、妥協を余儀なくされるのだ。けれどもそれはどうしようもないことだと思う。もしも完璧な統合を求めようとすれば、それは意地悪く笑うシステムに飲み込まれることになってしまう。分裂がその激しさを増し、もう少し幸福な場合には妥協形成として症状化する。いずれにしても個人はシステムに翻弄されている。
 卵の側に立つために、私たちにできることは妥協することでしかない。その代わりに、そうすることで私たちは未来を手にすることができる。反復される悲劇の彼岸へ歩み出すことができるかもしれない。そうであれば良いと思っている。

 完璧な解決は存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

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