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2009/01/21

週刊クライン vol. 3

 クライン著作集第1巻第2章「思春期における制止と心理的問題(Inhibition and difficulties at puberty.)」(2002)。6ページという短い論文であるため、すっかり油断していたらもうこんな時期になってしまった。第1章の60ページという暴力的な量に比べると、本当に力抜けするほど簡潔な記述がされた論文で、まあそれはいいのだけれども、困ったのはこの論文がいったい誰に向けて書かれているのかが分からないところである。

 第1章の子どもの知的発達における制止が性的知識への制止から生じ、それは環境の側からも子ども自身の抵抗からも形成されるという考えにのっとり、第2章でも子どもの性欲について知ることの制止が生活の広い範囲での制止を生み出すことが論じられている。しかし、その対象はタイトルのように思春期の学生たちであり、思春期になると少年たち(と訳されている。原文ではboysなのだろうか? 少女は? あるいは男女を含めた青少年の意味だろうか?)にそれまでとは違う性格や行動の変化が表れるというところから論文は始められている。親や教師はその結果としての成績や悩みにたいていうまく対応できないが、しかし問題は環境の側だけではなく少年の無意識にもあって、それが性欲の高まりであり、幼少期に形成されたエディプス・コンプレックスであるとKleinは言う。Freudは病気と正常の境界が流動的で、それは量的な違いだと述べている、という記述がこの章にも第1章に現れていたが、この表現は少年たちはみんなエディプス・コンプレックスを持っているということを指している。
 思春期の健全な発達のためにはこの無意識を理解する必要があり、それまでの部分的本能が生殖機能に統合される必要がある、つまり快感と愛情を交す身体部位が口や肛門やその他の部分であるのではなく、主に性器である必要があるということなのだと思うが、そうした性欲の性器への統合が必要であるという。さらに、幼児的な性欲の対象としての母親から内面的にも外面的にも分離する必要がある。それが達成されるのは、エディプス的競争の対象になっていることを教師が理解し、可能な限り性について率直に語り合えるようになる時だとKleinは書いている。これも第1章と第2章に記されているのだが、どうやらこの当時のKleinはLily Braunという人の「ある社会主義者の回想」という著作を気に入っていたようで、その中に思春期の養子たちに性教育をしようとして失敗している話があることが引用されている。このような引用をしながらKleinは、むしろ性教育が幼児期に始められることの必要性を説くのである。
 しかし、こうした努力をしても手の施しようがない時もあって、そうした時こそ精神分析の役立つ時であり、その援助によって問題の原因を見極め有害な結果を取り除くことが出来る、とKleinは主張する。

 という論文である。すごい主張であり、Freudの創設した精神分析をいかにKleinが理想化しているかがよく分かるのだけど、それがこの当時の精神分析内部の雰囲気であったのかどうかは分からない。少なくともこの論文より前に出版されている1920年の「快感原則の彼岸」、1923年の「自我とエス」において、死の本能、および陰性治療反応の概念が導入され、Freud自身はここに精神分析の限界を見ていたわけだから、やはりこの精神分析への万能性はKleinの理想化であると理解する方が良いのだろう。このような状態で出版されたこの論文は、したがっておそらく精神分析の素晴らしさを教師に向かって語っている、というところなのだとは思うけれども、教師の立場に立って語っているようにも見えず(といっても当時のイギリスの教師がどんなことを考えていたのか知らないのだけど)、あまり説得力があるようにも感じられず、実際その後あまり省みられてはいない。
 誰に向かって語っているのか分からないというのはそういうことだ。

 ただ、学ぶべきことがあるとすれば(そしてどんなことからも学ぶべきことはあると思うのだけど)、教師と少年の関係がエディプス的な競争にあるという理解は1つありえるだろうと思う。そして、それが突き上げてくる本能としての性欲によって刺激されていること、母親からの分離として、例えばBlosが第二の分離個体化を提起した際に重視したような、友人関係の役割というものがここでは触れられず、むしろ父親としての教師との関係が重視されていること、などについてはKleinが言うのとは違う見方をすることで学べることがあるようにも思う。それは端的に、性教育を正面から行うことが失敗をもたらしやすいことに関連している。
 Kleinは素朴な精神分析理論とでもいうものに従って、性についての抑圧のないことが健康につながると信じていたようだけれども、でも多分、性というのは他方で抑圧されることが必要なのであって、社会は意味もなく性を抑圧しているわけではないのだと思う。快感原則では社会は維持されない。
 内側からの衝迫とそれへの抵抗、外側からの抑圧と性の刺激、そのアンビバレンスは、単に解放に向かって進むことが求められているのではなく、一定の拘束の元での解放が必要とされているのではないかと思うのだ。というよりもそれが性器への統合ということではないかと思うのだけど、つまり身体のどの部位であっても自由にそれを使って快感と愛情を追求して良いわけではなく、性器という限定された部位においてそれが達成されることがアンビバレンスをうまく通過するということではないかと思うのだ。その意味で抑圧は必要なものだろうし、性教育は同様に抵抗に遭うのだろうと思う。
 そしてもちろんこの問題は身体部位だけではなく、相手だとか状況だとかについても同じことが言える。それが社会が性の抑圧を必要とする理由の1つなのだと思う。

 したがって、性について知るということは、どこか後ろめたさを感じながら、こっそりと行われるのがちょうど良いものであり、友人の存在というのはこの点においてかけがえのないものなのではないかと思うのだけど、どうだろう。

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コメント

お久しぶりです。クライン著作集を読まれているのですね。この企画に刺激を受けて、これから私も読んでみたいなと思っています。
まだ全然読んでいないのですが、今回の記事について感想を書かせてください。

>思春期の健全な発達のためにはこの無意識を理解する必要があり、それまでの部分的本能が生殖機能に統合される必要がある、つまり快感と愛情を交す身体部位が口や肛門やその他の部分であるのではなく、主に性器である必要があるということなのだと思うが、そうした性欲の性器への統合が必要であるという。さらに、幼児的な性欲の対象としての母親から内面的にも外面的にも分離する必要がある。それが達成されるのは、エディプス的競争の対象になっていることを教師が理解し、可能な限り性について率直に語り合えるようになる時だとKleinは書いている

幼児的な性欲の対象としての母親から内面的にも外面的にも分離すること」と、「エディプス的競争の対象になっていることを教師が理解し、可能な限り性について率直に語り合えるようになること」とをどのように結びつけて理解するのか、分かりにくかったです。私は、欲動論や精神性発達についての理解が不十分なようです。

欲動論に基づくと、「性について率直に語り合える」ということは、両者が対等な関係性にあるということになるのだろうかと推測してみたりします。そうであれば、思春期の人たちが教師という権威者に対してエディプス葛藤の再燃として競争的に(反発的に)振る舞う傾向にあることを教師側が理解し、可能な限り、その競争心を抑えつけるのではなく、対等に付き合うことが大切・・・という風に読めるのだろうかと思いました。
つまり、精神分析の中で分析者に転移される被分析者のエディプス葛藤の理解と取扱いを、教師と思春期の生徒との間に応用することが有益であるということを述べているのかなと思いました。
ということで、教師に向けてこの論文は書いてあるのかなと私も思います。

>教師と少年の関係がエディプス的な競争にあるという理解は1つありえるだろうと思う。そして、それが突き上げてくる本能としての性欲によって刺激されていること、母親からの分離として、例えばBlosが第二の分離個体化を提起した際に重視したような、友人関係の役割というものがここでは触れられず、むしろ父親としての教師との関係が重視されていること、などについてはKleinが言うのとは違う見方をすることで学べることがあるようにも思う。それは端的に、性教育を正面から行うことが失敗をもたらしやすいことに関連している。

思春期理解において、第二の個体化における仲間関係の大切さという視点は大切ですよね。これは、自我心理学的な流れだと思うので、ここでクラインが仲間関係について触れていないのは、心的現実にこだわり続けたクラインらしいのかなと思ったりもしました。


>Kleinは素朴な精神分析理論とでもいうものに従って、性についての抑圧のないことが健康につながると信じていたようだけれども、でも多分、性というのは他方で抑圧されることが必要なのであって、社会は意味もなく性を抑圧しているわけではないのだと思う。快感原則では社会は維持されない。

性について抑圧のないことが健康につながるという考えは、私も疑問です。性について(特に女性の性について)あまりにもタブー視されていた時代には、抑圧されている性欲動の解放という考えは自由の象徴だったのかもしれませんけれど、今の時代は仲間に「こっそり」と話せることが健康的だと思います。そして、その仲間が、話を漏らさずに抱えてくれる器であるかどうかが、今の思春期の人には大切なことのように思いました。

投稿: sakura | 2009/02/04 00:24

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