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2009/01/12

週刊クライン vol. 2

 すでに週刊ではないけれども、何とか習慣くらいにはしたいもの。週刊クラインのvol. 2は前回の続きで第1巻、第1章、第2節「早期の分析(early analysis)」。前回の「性教育と権威の弱まりの子どもの知的発達に及ぼす影響」と合わせて、「子どもの心的発達」を構成している。したがって、ここにでてくるのはやはり近所のフリッツと呼ばれる少年の事例で、この子どもが何歳かは書かれていないが、出産についての質問が始まった時期から始められており、それが4歳9ヶ月であった。

 1節では、性に関する知識が大人によって抑圧を被る可能性があること、それが知的発達を阻害することにつながること、逆に飲み込めない質問が繰り返され、知ることが障害されている時に、性の知識を適切に与え、魔術的な回答を与える親の権威が弱まることが、その他の領域においても子どもが学ぼうとする力を支えることになるという話が書かれている。それに続いてこの節では、そうは言っても子どもの側にも性の知識を抑圧しようとする傾向があり、それはFreudの症例ハンス(5歳)の報告を受け継いだHug-Hellmouthの6歳以上の子どもに精神分析が適用できるという説よりも、より早期の段階に生じるとしてこのフリッツの症例を上げている。
 1節では母親とKleinとによって、「教育」されていたと書かれているこの事例だが、ここでは毎回決められた時間を取り、その時間が来ると分析を終えた、という記載もあり、このあたりの構造がよく分からない。精神分析の初期には現実的な人間関係がある中で分析が行われていたりして、弟子の分析はともかく、同僚の配偶者や子どもの分析をし合うみたいなことまであったので、そうした時代背景を考えると、この報告を症例として捉えていいのか、観察(あるいは関与しながらの観察のようなもの)として捉えていいのか迷うところではある。Klein自身は「分析的な形での養育」と言っている。

 フリッツの示した状態というのは、初めは出産に関する質問の形をとり、それは性教育によってある程度解決したように見えたが、そのうちに同じ質問が繰り返されるようになり、それとともに母親から物語を聞かされることを楽しまなくなり、やがて遊ぶこともしなくなったというもので、こうした状態の背後にKleinは性や出産について本当に知ることの抑圧があったという。第1節の論文を学会で発表した際に、Freund(Freudではなく)から、その介入は表面的で解釈ではない、と言われたようだが、それを取り入れて、そこには教育され、知ることについての抵抗、つまり抑圧があると考えているようだ。
 それはフリッツが出産について父親の役割を受け入れないところに現れている。子どもの性知識として、赤ちゃんは胃の中で育ち、食べ物から出来上がり、大便が子どもと同一視されることをフリッツの発言を通してKleinは描き、ここで性行為および受精についてKleinが説明してもフリッツは受け入れようとしなかったという。それでもKleinは説明を続け、フリッツは最後にはそれに関心を示すようになったが、次には父親ではなく自分が母親とそれをしたいという願望を表現するようになる。しかし、Kleinはそれに対しても母親は父親のもので、フリッツがそれを出来るようになる頃には別の人とそれをする、というようなことを言う(こうした教育のあり方が同時のイギリスにおいて一般的だったかというと、そうではないと思う)。
 こうして性や出産に関しての知識がある程度(完全にではないが)受け入れられた時、繰り返されていた質問はなくなり、遊びは促進された、したがって空想の制止は遊びの制止の原因であるのだろうとKleinは主張する。この辺りは、前のエントリで分からないといった、性的関心の背後に出産にまつわる父親の役割が関わっているという記述につながってくるのだろう。

 こうして空想と遊びが戻ってくるにつれて、やがてエディプス・コンプレックスが生じる。つまり、父親を排除して母親を自分が結びつき、他のきょうだいを自分と母親の子どもとして育てる、という空想が現れてくるのだ。それは同時に父親から迫害される恐怖を伴うことになる。それがフリッツの語る物語の中で、あるいは遊びの中で展開していく。それはさまざまに象徴化され、列車とモーター(それは父親と母親とフリッツの物語である)、山にモーターが登ること(山は母親であり、その上にフリッツがのる)、兵隊と運転手(兵隊はフリッツである運転手に殺される)、将校と看護婦(将校はフリッツであり看護婦はいつも将校の妻であった)などの物語として紡ぎ出される。フリッツには窓の下を車や馬車が通るとそれを見に行き、またそれを見るために玄関の前に何時間も経っているという強迫性があったことも書かれているが、馬と御者の関係は母親とその配偶者の関係として見立てられており(この素材の取り扱いには症例ハンスとの連続性もあるのだろう)、父親はこれらの遊びの中で何度も殺され、フリッツが父親となり、母親を手に入れる。そこにはサディズムと、当然その投影としてのステッキ、鉄砲、銃剣などによる迫害が描かれ、時期を隔てて、そこに父親との同性愛傾向が見られるようになった。それは夜驚に見られる恐怖夢、その中の穴の夢の解釈として理解されている。

 フリッツの状態は安定したり、不安定になったりを繰り返していたようだが、最終的には自らが強くなること、解釈によって父親のペニスを恐れていること、父親に対する攻撃性のあること、そして母親に対する攻撃性もまたあることを認めることで、改善していったように描かれている。母親の姿は良い母親と魔女に象徴される悪い母親とに分裂し、女性へのアンビヴァレンツがここに現れているとKleinは解釈している。しかし、この点はそれ以上探究されておらず、またいくつかの点が不完全なままになっている。

 それでも、こうした「分析的な形での養育」によって、フリッツの私的活動、空想生活、遊びが展開したことで、Kleinは精神分析的な援助なしに養育は行われるべきではない、と主張する。例え性への関心が大人によって抑圧されなくとも、そこには子ども自身による抑圧があり、それを解釈することなしには、発達への傷つきやすさや制止が生じてしまうということなのだろう。ここにエディプス・コンプレックスが関わっており、Kleinはこれが系統発生的で生来的なものであるという立場をとっているようだが、少なくともこの論文を読んだ限りでは、Kleinが母親は父親と性行為をしてフリッツはそれが出来ないみたいなことを言っているのでフリッツが父親を亡き者にしようとしはじめる、とも読めるので、Kleinは事実を解釈しただけのつもりかもしれないけど、それがはたしてフリッツのエディプス・コンプレックスらしさに無関係かというとそれは疑問ではないかと、私は思う。
 それはともかく、願望や本能衝動が意識化されることでその影響は弱まり、望ましくないと思われる特性はなくなり、さらに愛する人への思いやりや情け深さを示すなど、分析的な援助はこれまでの教育を補完し、抑圧を弱め、それ以上に願望や本能衝動の昇華を助ける、というのがKleinの主張である。
 ここにはもちろん困難がある。その1つは近親相姦の願望であるが、これはあまり問題にならない、子どもはそれが不可能だと分かるとあきらめる、という形でKleinは言葉少なにこれに触れているだけである。もう1つの困難は子どもが快楽への手段として分析を用いるかもしれないということで、それは空想にふけったり、願望充足の変わりとして物語や遊びを用い続けたり、ということを指しているのだと思うが、これに対してはKleinは時間を決めてそこで分析を切り上げ、攻撃性を他の形で発散させることにも反対する、という立場をとっている。全ての子どもにこうした分析的な援助が必要かということも問題になるが、Freudがハンスの症例において述べているように、神経症の基礎には幼児神経症があり、恐怖症とその治療が抑圧の芽を摘み取ったのであって、それは多くの子どもにとって有益となる、とKleinは結論づけている。そしてその指標として怖いグリム童話を不安を示さずによく聞けることが考えられるとも言っている。最後に、女性精神分析家が幼稚園を作ることを述べて論を終えるのだが、こうした教育についての示唆はその後発展していない、と後の注に記されてもいる。
 それはそうだな、と私も読んでいて思った。「分析的な形での養育」について自ら提示した困難にKleinが十分に答えているようにも思えないので、やはりそこには無理があったのかもしれない。

 しかし、子どもが質問の答えを飲み込めない時に、子どもの理解する力の不足を見るのではなく、知ることをめぐっての子どもの知りたくないという抵抗に注目し、それが母親を自分のものにしておきたい願望と一緒になって働いていると理解するKleinのこの姿勢は、その適否はともかく、子どもの問題を環境の要因や器質的な要因に還元しやすい姿勢とよく対比されるものだろう(その姿勢がまた精神分析への反発として生じてきている歴史もあるのだろうけど)。教育についての精神分析の貢献がKleinが言うほどには望めないと私は思うが、それは分析家の訓練を考えても、1人の分析家が担当できる子どもの数を考えても、性について知ることの文化的な抑圧を考えても、その抑圧がなぜ生じるのかには何かしらの必要性もあるのだろうということを考えても、私はKleinの教育論に賛同は出来ないのだが、しかし、子どもの問題の背後にこうした事実を知ることへの抵抗と、事実を知ったことでの新しい葛藤と、それを丁寧にくみ取ることの必要性とを認める立場には比較的賛成ではある。
 Kleinが書いているように、外からの困難は内側から生じる困難に比べれば取り扱いがしやすいものだとは思うし、その困難に取り組むことが教育であるというKleinの主張には同意するところもあるわけだ。

 こうして読んでくると、5歳以前の子どもへの言葉による接近、空想を表すものとしての遊びへの注目、エディプス・コンプレックスとその解釈の重要性、それによる抑圧の低下、願望や本能衝動の昇華、思いやりの出現、などに後のKleinの発展を見ることが出来る。Mrs. KleinがKlein派のKleinへと歩みはじめる、最初期の論文がこの「子どもの心的発達」なのだろう。特に、その解釈は圧倒的であり(というより1回読んだだけでは訳が分からない)、時に精神病者へのそれであるような様相すら見せる。このKleinの理解力と方向性こそが、後の妄想ポジションの発見につながっていくのだろうな、と思う。

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