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2008/10/13

臨床心理士資格試験対策講座

 タイトルだけで脱力してしまいそうなエントリだけど、最近、こうした形の講座を、大学が、というか大学院に関わっている大学の教員が、修士課程終了後の学生を対象に行っているという話を聞いた(というか、今回のエントリはすべて伝聞です)。

 実際にそうした講座を行っているという話もあれば、新しく始めようとしていたり、こうしたことが大学院の会議に議題として上がったという話もあったりと、その水準にはいろいろな幅があるようだけれども、どこの大学も大学院を出た学生が資格試験に通る割合がどれくらいかということには敏感になっている。大学院受験生が、こうした合格率を見ながら進学する大学院を決めたりしているからでもあるし、大学本部(やこうした問題に感心のある誰か)からこうした合格率を高めることを求められているからという理由もある(大学はもちろん、合格率の高さが大学院受検者を増やすことになると期待している)。

 臨床心理士指定大学院とされるところは、その専攻内に臨床でない心理学を抱えているとしても、ある程度学生が臨床心理士になることを目的として作られているわけで、その意味ではその修了生たちのいくらかは臨床心理士資格試験に合格することを目指しているのだと思う。合格率は100%ではないし、大学院を出た段階で必ずしも試験に合格する知識や経験があるわけでもないだろう。
 でも、だからといって資格試験対策講座みたいなことを大学が行うべきなのだろうか。

 どこから手を付けていいのか分からないほど、脱力する話題なのだけど、まずはこの合格率。冷たいことを言うようだけど、多分(正確なデータがどこかにあるのだろうか)、合格率の高い大学院というのは、それだけ学力の高い大学院なのではないかと思うわけで、合格率をもとに大学院を決めるという話があるとしても、そうした大学院に受かる人は資格試験にも受かるだろうし、資格試験に受からない人は合格率の高い大学院の受験でも難しさがあるだろうと思う。その意味で合格率を基準に大学院を決めることには意味がないと私は思う。

 合格の可能性は大学院があげてくれるものではない。

 仕事をしていく上で必要な基礎知識や基礎的な技術が資格試験を通じて学べるとは私は思わないが、そうした知識や技術を習得するための学ぶ能力と試験への対応能力とはある程度相関するだろうと思う。だから資格試験にはある程度意味があると思うのだけど、その学ぶ能力というものは大学院で伸ばすべきものではなく、ましてや大学院を出てから伸ばすべきものではなく、大学院受験以前の大学時代までに身に付けた諸々の能力の上に、臨床心理学において必要とされる実体をなす知識と経験を積み重ねるのが大学院教育というものではないかと思うのだ。そのために講義があり、演習があり、実習があり、各種のカンファレンスがあるのだと思う。
 大学院というものは合格率をもとに決めるものではなく、自分が専門的に研究し、実践を行っていきたい研究者や教育者のいるところに進むべきものだと私は思うし、逆に言えば、合格率を気にする受験生をそもそも必要とする大学院側の姿勢もどうかと思ったりするのだ。

 けれども、その一方で大学の側でもそうした対策講座に手を出してしまう比較的切実な要因があって、なぜそんなことに手を貸してしまうのかというと、先に書いたように、受験生の確保のためであるという理由、それを背景とした大学本部からの圧力というものがあるからだと思う。
 大学の定員割れ、ということがしばしばテレビのニュースでも流れるけれども、大学には入学の定員というものがあって、それは大学院でも同じことで、この定員を割るということは大学の評価にとって痛手となる。
 1つは授業料の問題。大学の予算はこの定員が埋められることを前提に組まれるし、当然教員の給料、研究費もこの予算に基づいて定められる。もちろん時代によって流行廃りはあるので、すべての学部、大学院が定員を満たすわけでもないことはあるが、定員を割ることは学内での諸々の力が弱くなることを意味してしまう。それが具体的にどういう形をとって現れるかというと、いろいろな形があるけれども、とにかくお金の面は現実的な問題として無視できない。
 それと、こうして定員を割るということ自体が大学や大学院に力がないのではないかと見られる側面があって、これがもう1つの問題である。大学に力があれば、定員を確保できるのだろうけど、定員が確保されているからといって力のある大学だとは限らない(この場合の力が何を意味するかはちょっと長くなりそうなので、省略)。ただ、定員を割っているということは、それだけで機能不全を引き起こしかねないところがあるので、それを嫌がって受験生が減るという状況に陥ることは否定できない。
 こうした定員割れは、あまりに続くようだと文科省から何かしらの通達があったり指導が入ったりもするし、大学への補助金がカットされたりもする。
 いずれにしても、定員割れというのは大学にとって回避したいところなわけで、そのためにオープンキャンパスが行われ、AO入試があり、推薦就学の枠が拡大し、数字上の偏差値が上がり、受験生確保のために模擬講義が行われ、出張講義や入学前教育なんかが行われていたりするわけだ(入学前教育は、推薦などで合格をもらって暇を持て余した高校生、を持て余した高校の先生に評判が良い)。資格試験対策講座みたいなことも、国家資格のある学部なんかでは当然行われていることで、というかカリキュラム自体が資格に向けて組まれているし、その折々に模擬試験が組み込まれていたりするようなので、そうした点からすれば臨床心理士資格試験対策講座のようなものが行われても不思議ではないのだろう。

 社会的にはそうした数字で現れる結果というものが重視されているし、初めに書いたように指定大学院というものは、それが専門職大学院であれ、そうでないものであれ、臨床心理士になることを目指して作られているわけで、その成果をある程度の数字で表すことが必要になってくる。それは分かる。

 けれども、私たちはその一方で、というよりも、より本質的な立場として、心を扱うことを専門とする立場にいるはずの者なわけで、心を扱うということは、目に見える数字の部分だけを大事にするということではなく、目に見えないもっといろいろなことにも気を配っているはずのことなのだ。資格試験への合格率は、その資格試験を受験する学生本人の問題であって、その本人の持っている能力をできるだけ伸ばし、臨床で仕事をするために必要なことを学ばせるのが私たち教員の仕事なのだと思う。私たちの教育の質を上げることにはやぶさかではないけれども、そこで何をどの程度学ぶか、それをどのように活かすか、それに基づいてどのように資格試験に対応するか、ということは、本来的に学生自身の問題である。
 資格を得ることで仕事につなげ、誰かの支援に役立てていく努力は、学生自身が行うべきものであり、合格率はそれに伴って現れてくることである。学生自身の努力は教員が関与できる問題ではなく、それは自発性の問題なのだ。誰かに引き出された段階でそれは自発性ではない。

 目に見える合格率が大事になるのは分かるけれども、それを上げるために教員の側が手を出すことは、そうした学生の自発性や主体性を教員が肩代わりするということにつながってしまう。結果を出すために行うべき学生の苦労や葛藤を教員が肩代わりするということになるのではないか、というのが私が抱える疑問なのだ。資格試験対策講座と呼ばれるものに私が脱力するのは、そうした学生が引き受けるベき苦痛や葛藤や悩みを、教員がむやみにやわらげ、まるでエスカレーターに乗って運ばれるように、何の苦労もなしに学生を外に運び出してしまうからなのだ。
 確かに学生に任せるよりは講座でも開いて必要なところまで引っ張っていった方が手っ取り早いのかもしれない。けれども、自分が仕事をしていく上で必要な苦労や葛藤を引き受けられないような人なら、心を扱う仕事なんてしない方がいい。自分ができないことを、人に支援することなんてできないと私は思う。

 現実的に合格率が受験生にとって意味があり、それが翻って大学にとって意味があることは分かるとしても、それでも臨床心理士という仕事の性質を考えた時にそこで手を貸すべきではない、というその葛藤を、私たち教員の側も引き受けるべきなのではないかと思う。私たちは自分の足で自分の人生を歩く必要があり、人生にはそれだけの価値もあるし、そして同時にそれくらいのことしかできないのだと思う。大人の側が子どもが転ぶ前に手を出すべきではないと思うのと同じようなことを、生きることの病に触れる私たちの仕事を鑑みて、この問題に関しても思うのだ。

 一部では資格認定協会の方が、これからは大学院間の競争の時代になる、みたいなことを言っているとの話も聞くけれども、それが本当だとしたら、ひどい話だと思う。そもそも大学院というのは研究機関であるわけで、その意味ですでにそれは切磋琢磨する競争的な関係にある。今更競争になるわけではない。加えて、もし過度な競争になるのだとしたら、それは指定校を増やした認定協会の側にも責任はあるかもしれないわけで、まあそうした認定協会の話はまた今度。

 私が何に腹を立てるかというと、学ぶこととは葛藤であるという認識が薄れていくことに対して、その軽薄さに対してである、ということなのだけど、本当はそういう話をすると、教育というものの日本における地位について腹を立てたくなるのでこの辺で。それを論じるに足るだけのものが私にも無いことだし。

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コメント

大学側の事情も理解はできますけど、手取り足取りなんてやられるより自分の力でやって落ちた方がマシです。手を借りるのは入り口までで十分です。師には、この決意だけを伝えればよいと僕は思っています。日本は全体的に過保護なんだと思います。同時に甘えも多いんだと思います。

投稿: rhox2001 | 2008/10/21 00:06

>rhox2001さん

 こんにちは。お久しぶりです。

 おっしゃるように日本の制度や社会というのは全体に過保護で甘えを許容するようなところがあるのだと思います。その是非はさておき(長所ももちろんあるのだと思います)、土居健郎が甘えの理論を提出したように、ある意味ではそれは日本人の宿命なのでしょう。
 その背後にあるものは、不安なのだろうと思います。未来というのは予測のつかないもので、欧米ではおそらくこの不安を自律・自立によって乗り越えることが良いことだとされているのでしょうが、日本ではこれを人々が寄り集まることで紛らわしているのだと思います。繰り返しますがその是非はさておいての話です。

 その意味ではこの話も、日本の伝統的な対応といえばそうなのかもしれません。日本人は果たして後に続く人たちにどの程度自立を望んでいるのか、と言うことでもあるのかもしれません(だって子どもが本当に自立したら、自分たちを超えてしまうかもしれないじゃないですか、という話です)。

 大学が、大人が、社会が、世界が、間違っているように思える時に、その諸々の大人の事情(あるいは子どもっぽい事情)を踏まえて、その良し悪しを踏まえて、自分が何を選択し、どのように振る舞うか、を私たちはいつも試されているのかもしれないですね。

投稿: nocte | 2008/10/21 02:09

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