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2008/09/29

塀の中と外

 刑務所でのカウンセリングを初めて1年半になるが、これくらいの時間が経つと自分が行っている面接の意義や方向性についてある程度は考えられるようになってくる。それまではこれまでの経験に基づいてやってきた部分、新しい経験としてついていくのが精一杯だった部分がほとんどで、その意味や役割について考える事が難しかったからだ。

 受刑者の処遇改善の一環として始められた現在のこの仕事は、おそらく刑務所によってその実態は多少異なるところがあるのだと思う。私が働いている職場で私に期待される役割は、昼夜独居といって、懲役何年と裁判所で言い渡されたその懲役について、通常ならば雑居房に入って工場に出て作業を行うところをさまざまな問題があって独居房に入り一人で軽作業を行っている、そういう受刑者たちへのカウンセリングである。目的は精神的な安定をはかること、独居房から出て工場へ出る動機付けを高めること、社会復帰への動機付けを高めることなどである。
 こうした昼夜独居にいる受刑者へのカウンセリングがすべての刑務所で期待されているのではないのだと思う。
 それでも私に期待される役割がそれならば、そして刑務所のような機関においてそうした期待は漠然とした期待ではなく明確な事業計画のもとに定められたものであるだろうと推測されることを踏まえると、それを引き受けることが私の仕事になるのだと思う。刑務所において上から下への指令系統は統一されたものであり、私の立場もその中に組み込まれ、したがって病院などのチーム医療というものから想像される世界とはかなり異なる世界であるように思える。それが良いか悪いかの議論はここではしない。

 そのような環境の中でともかくも1年ほど仕事をしてきて、改めてカウンセリングをすることの難しさを感じる。

 独居房というのはいろいろな形で使用される。1つの形態は懲罰を与える部屋としての使用だ。雑居房や工場で問題を起こしたとき、関係した受刑者には懲罰が課され、独居房に入れられる。もう1つはいくらかの身体的、精神的な要因で集団生活を行えない受刑者の収容だ。よりはっきりとした身体的、精神的病理を抱えている人は、治療設備のある刑務所に送られ、そこは独居房とは異なる区域になる。
 独居房に入っている間に行える作業には制限があり、そこでの給金にも上限がある。独居房にいて工場に出ていないと、正規の懲役に服していないとして仮出所(仮釈放)の対象にもならない。そのため、多くの受刑者は独居房にとどまらない。彼らの最も強い動機付けは少しでも早く仮出所を得る事だからだ。
 しかし、一部にはこの給金の少なさと仮出所の可能性を放棄してでも独居房にとどまろうとする受刑者がいる。工場での作業を拒否する受刑者、対人関係に困難を抱えた受刑者、などであり、そうした人々には将来への希望のなさが見られる。出所して自由は欲しい、けれども外に出てもどのような生活になるのかの見通しは立たず、したがって将来に希望も持てない。受刑者を更生に向けて、強く動機付けるものが彼らには欠けている。私が役立つことを期待されているのは、そうした人々との面接なのだ。

 改善や更生への動機付けの低さはさまざまな要因によってもたらされる。
 例えば欲求不満体制の問題。多くの、特に犯罪の進んだ受刑者にとって、欲求不満に耐えるということは困難である(だから罪を犯すわけだけど)。むしろ欲求不満に耐えられないという事についての自覚も持たれない。考えたり感じたりする事は行動で解消されるし、独居房にいる人々の場合、それは接触を避けるという形をとる(だから独居房に入っていくわけだけど)。それは外界との分裂であり、外界からの引きこもりであり、ここにも改善への動機付けの低さが現れることになる。
 あるいは否認の問題。刑務所にいる間、衣食住は国によって最低限保証されており、刑務官らによって規律を守るよう管理が為されている。そのため、受刑者個人に目立った問題は現れない。それは必然的に自分の問題を自分の問題として取り組もうという気を失わせる事になる。なにせ今のところ問題はないのだ。外に出てから真っ当に生きていくことが大事なことで、外に出てから盗みをしないこと、仕事を探し、続けること、アルコールを断つこと、悪い連中との付き合いを避けること、薬に手を出さないこと、はこのような状況において「今考えても仕方のないこと」というラベルを付けられて、心の片隅に追いやられてしまう。もう刑務所に入るのはこりごりだから、今度はちゃんとしますよ、と言い、だからといってそのために今何かをしなければいけないというふうには考えられない。
 彼らはこれが半分言い逃れである事は分かっており、しかしだからといって今やれる事があるとも本当に思っていないように思える。
 それから先ほどあげたような悲観的な見通しの問題。

 一般にカウンセリングとは自分の困っていることについての相談である。しかしそれは困っていることを何とかしたいという気持ちのもとに成り立つものであると思う。それがこうした人々にはない(0ではないにしても)。もちろん先の見えない絶望を抱え、問題を行動で解消し、その深刻さを否認している人は刑務所内でなくともいると思う。ある意味では嗜癖の治療にこれは似ていると言えるのかもしれないし、その点では刑務所におけるカウンセリングの困難は精神科における困難とそれほど変わるものでもないかもしれない。

 しかし、それだけではないやりにくさが私にはある。そうした人々と比べて、彼らを特徴づけているのはその分裂が刑務所の高い塀によって現実化されているところにあるように思えるところなのだ。

 受刑者が語る今改善に取り組むことの無意味さという分裂に遭遇するたびに、私は精神病院での入院治療について考える。入院治療とは外界の刺激を断って安定をはかることに役立つものであり、それはある意味では刑務所の機能と同じところがある。しかし、その中での治療プログラムは退院してからの生活につながるものになっていて、退院は1つの目標ではあるけれども、それ自体がゴールなわけではない。その先の生活が視野に入れられた中間地点であり、そのためデイ・ケアなどの利用、福祉制度の利用、なども入院中から組み込まれていくわけだ。そこでは病院の中と外はきちんと連続したものとなっていて、それは制度上も、治療上も、そしておそらく患者の中でもある程度は認識され、共有され、それを基盤に心理療法も進めていける。
 刑務所でも福祉との連携ということが強く言われるようになってきて、それは決して他所の世界の出来事ではないはずなのだけど、それでも当の受刑者にとっては、特に独居房にいる人々にとってはそうではない。

 それは多分、刑務所の中と外の生活が実際に大きく分断されているからでもあるのだと思う。

 刑務所の中と外は確かに分裂している。刑務所内に自由はなく、起床時間から就寝時間までやるべき事は決められていて、言ってみれば毎日が放課後のない学校のようなものである。作業の時間と休憩の時間は決められており、休憩中にして良い事と悪い事がある。独居房は3畳あるかないかという空間であり、そこで行える事はあまりに少ない。入浴の時間は決められており、食事も選べない。
 反対に外に出ると自分を制限するものはなく、やらなければならない仕事もない。誰かに見られている事がないかわりに、何かの時に相談をする相手もいない。刑務所の中では刑務官を味方とは思わないにしても職務として必要な事はしてくれる対象だと思う事ができるけれども、外ではそうして頼る事の可能な相手がいない。生活の上での統制のなさは、自らの安定性についての統制のなさにつながり、自由はやがて逸脱にすり替わる。

 塀の内側と外側の生活が現実的な問題として、このようにあまりにも分裂しているために、カウンセリングはこれからにつながる今の道筋としてあまり機能しないのではないか、というようなことを考えるのだ。刑務所の塀は、このような意味において受刑者の心の壁とその分裂の象徴である。刑務所内にいる今に問題はなく、これからの問題はこれからの事とされる。外に出て今度は多分うまくいくし、うまくいかないとしてもそれはこれからの問題で、今やれることはない。今やれることを探すのはやっかいなことだし、実際ここの生活はシャバでの生活とは違うものだから。
 重みのない希望と、希望のない悲観とがそこには交錯し、それらを結びつけ改善と贖罪を促す働きかけは高い壁の前でせき止められる。それはおそらくカウンセリングに限った問題ではなく、矯正という機能がこの壁の前で立ち止まってしまうように思える。

 じゃあこの壁をなくして、刑務所内の生活を日常生活に近づけたら良いかというと多分そういうことでもなくて、それじゃあどうするのかという、この分裂をどうやって解消するのかということが私から見たこれからの司法臨床に必要な取り組みであるように思える。それは多分大規模な矯正の方向転換を意味することになるのだろう。
 それはまだずっと先の話である(という私の諸々の想像はしばしば外れるのだけど)。
 それなしに、今の制度の中でどのくらいの働きができるのか、自分の未熟さを棚に上げて考えている分を差し引いたところの、私が直面している難しさとはそういうものであるように思う。

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 近々、刑務所出所者の更生施設に見学に行く予定になっている。僕は犯罪心理などはほとんど分っていないので、「非行」ということを少しでも知ろうと思い、レポートを書く合間にパラパラと文献を見ている。  そんな中で、僕は精神分析学辞典の「非行の心理療法」の項を読みつつ、非行少年に対する心理臨床において構造転移の問題を乗り越えるのが第一関門、陽性転移後の行動化にどう対処するかが第二関門、見捨てられ不安に基く抵抗を「見捨てないという行動による徹底操作」によって取り除いてゆくのが第三関門なのか、と自分のなかでま... [続きを読む]

受信: 2008/10/26 20:51

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