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2008/07/08

私から愛されたいのですね

 大学の仕事をするようになって3年が経った。最初の1年は臨床の仕事を全くせずに過ごし、次の年から再び外でも働くようにした。それから1年が過ぎて、その間に2回ほど外部の研究会でケースの検討をしてもらった。その時に指摘されたことから思ったことなど。

 指摘されたことというのは、もっと私からダメだと思われないか心配していること、私に評価されたくて面接に来ていることを取り上げる必要があるのではないかということであったのだけど、確かにそうした側面について取り上げることは少ない流れだった。もちろんそこにはその人の抱えている病理なり性格的な特徴なりがあったのはあったのだけど、一時期臨床から離れる前には私自身もっとそうした私からの評価、私からの愛情を話題にしていたように思う。

 以前よりも転移解釈が減ったのはたんにSVがなくなったせいもあるとは思う。他者の目がないと私は転移解釈を控える傾向がある、ということは前から思っていたし、そこには私なりの思いもあったのだけど、それにしてもやはり転移解釈が足りないと改めて思った。
 特に、私からの肯定的な感情を相手が求めていることについては、それを取り上げる機会がずっと減ったように思う。いくらか慎重に相手に接近することを心がけていたり、私の理解が独りよがりにならないように以前よりも感情や考えややり取りについて相手に確認することが増えたせいもあるかもしれない。大学に入って、いろいろな立場の人の物の見方に接すると、精神分析的な意味で解釈的に人の話を聞くことは現実的な確認の作業をおざなりにしているように映るということが分かったりして、そうなってしまうことに意味があるとは思いはするものの、一度そうした他の視点を意識すると、それまでのように空想の水準で話を聞くことが難しくなる。それが転移に焦点化することを妨げたりするのだ。

 例えば(何でも良いのだけど)誰かの悪口が語られている時に、精神分析的な面接にとって重要なのは、それをその人がどのように語るか、という部分であって、語られていないことについて、その事実関係を細かく確認したりはしない。まれには聞くことはあるだろうけど、でも、そこで語られていることの方がその人に選択された話題なのであって、それが私に向けて語られていることの意味や、そこに象徴されている何かを読み取ることの重要性の方が一義的なものになるのだ(と思う)。語られたことの中に大事なことは含まれており、語られていないことは抑圧されているか分裂されていて、尋ねたからといって出てくるようなものでもない(のではないだろうか)。
 確かに、もっと現実的なことを聞きなさい、という先生もいた。それはそれで一理あることで、特に自我心理学的な立場に立つと、現実というものを強く意識することになるようではあるので、その意味では現実のやり取りについて尋ねることは多くなるだろう。それでも基本的にはそれらは、現在の面接での関係、というか転移を解釈する素材になるのであって、語られた話題(この場合は悪口を言われている誰かとの関係や、その誰かへの思い)を取り上げることが介入の中心にはならない(多分)。
 そうした感覚というか、介入の方針というか方向性が、この2年間ほど、いろいろな立場の物の見方に触れることでブレていて、そのために空想水準から離れ、現実寄りの聞き方になっていたのだ(別の言い方をすれば「言い訳」とも言える)。

 もちろんそこから学んだことはある。どんなことからでも私たちは学ぶことが出来る。事実関係について聞くことの意義と、その意義のなさについて学んだことが最も大きなことだったのではないかと思う。

 新しい経験をして、結局私は空想を聴く重要性に戻ってきた。

 私が精神分析的な立場にいる以上、私の身を置く場所は転移の中なのだと思う。その重要性がなくなれば、精神分析的な心理療法は存在する必要がないわけだし、私はその重要性がなくなるとも思っていない。
 とりわけ、私から評価されたいこと、もっと言えば私から愛されたいこと(この辺りの表現については以前にセーイチさんも取り上げていたように思うけど)を取り上げないということは、逆にその人の愛されたい思いに気付いていないことであったり、気付かないふりをすることであったり、それをなかったことにしてしまうことなのだろうと思う。そうした期待や思いが私に向けられるということは、それがこれまでかなわなかったり、裏切られたり、傷つけられたり、求めることが出来なかったりした歴史があるからで(少なくとも主観的には)、そうした思いを今またここで、なかったことにすることは、救われない人生を繰り返させることになるのだと思う。
 愛されたい思いは愛されたい思いとして、何より今目の前にいる「私」という対象から与えられたり、得たいものとして描写する必要があるように思う。人から愛され、評価されたい思いを語ることは、私との間でもその思いが体験されることでもある。心理療法という特別な関係の中でそれを引き受けることが出来なければ、どこでそれが正面から受け止められるのだろう。愛されたい思いがある程度は叶うこと、ある程度以上は叶わないこと、その悲しみやあきらめをめぐるワークスルーがその後に続くことになるとしても、「それ(it)」はそれとして、共有され、尊重されるべきなのだろう。

 私から愛されたい思いを取り上げることの困難のある部分は、おそらく私自身の自己愛的な感覚に起因するけれども、そうした困難を乗り越えてでも、取り上げる価値はあるのだと私は思うので、もう少し、しっかりとそのことに取り組んでいこうと考える今日この頃なのだ。
 とてもとても当たり前のことなのだけど。精神分析的には。

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コメント

こんにちは。セーイチです。今はピュアリーと名乗っています。

なんか名前が出ていたので、思わず書き込みしちゃいました。けど、昔に書いたような書かなかったような記憶がちょっと蘇らないけど(笑)、ちょっと別の観点のところにコメントします。

>精神分析的な面接にとって重要なのは、それをその人がどのように語るか、という部分であって、語られていないことについて、その事実関係を細かく確認したりはしない。

事実関係は確かに細かくは確認しないと思います。せいぜい診断面接の時にちょこっと聞くぐらいですかね。

事実関係はさておき、語られてないことって僕は結構気になったり、それを確認していったりすることは多いんですね。患者の語るものが出来事についてばかりだと、その時の情緒や空想を聞いたり、あやふやなところを明確化していったり。僕がもっと鋭い感性の持ち主だったら、そういうことをせずとも本質を見抜いて解釈ができたりするのかもしれないけど、そうでもなさそうなんで(笑)

明確化を通して、素材をかき集めてから、解釈するというパターンが僕には多いように思います。

これは「事実関係を確認」とは違う話かもしれないけど、ちょっと連想したことを書きました。

投稿: ピュアリー | 2008/07/08 14:13

>ピュアリーさん

 そうですか、いつの間にか改名(というのでしょうか)をされていたのですか。失礼しました。

 コメントされていること、私の言葉足らずなところでした。語られてない情緒や空想は確かに尋ねますよね。尋ねずに解釈することもありますし、尋ねて返ってきた言葉が防衛の在り方を示しているのではないかと考えることもありますし、尋ねたことによって寄りその体験が明確に理解できたり、更なる連想が生まれたり。
 いずれにしても、尋ねるとしたら、たいていそうした内的体験になっているかもしれません。夢の解釈の時なんかは連想であったり。

 これとは対照的なこととして私がこのエントリで言おうとしたのが、むしろ事実関係の方なのです。事実関係ってあまり重要ではなくなってくるように思うのですが(と言い切ることにも抵抗はあるのですが)、そうした態度って、他のオリエンテーションとは全然違うなぁと思うのです。
 おもしろいなぁ、と思うところでもあるし、何で事実関係を聞かないの? と他のオリエンテーションの方に尋ねられるところでもあったりします。そうした体験が私には新鮮だったところからのエントリでした。

投稿: nocte | 2008/07/08 19:24

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