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2008/07/21

10年

 去年こんなエントリをあげた。あれから1年近くがたって、また大学院の入試の時期がやってきている。今年の院試を経験してみて思うのは、去年とは比較にならないほど、過去にカウンセリングを受けた人たちがいることだ。

 私が大学に勤めるようになって最初の講義で学生の間を歩いていたとき、すでに何人かの人の手首に傷跡があることに気付いた。それが誰であったのか今となっては分からないけれども、それから後もそれなりに大変そうな学生たちを見てきたし、そのうちの何人かは大学を続けられずに、退学をしていった。心理や臨床心理が学べるところは全体的にそうした精神的な健康度の低い学生が多い。事務の人と話をしていたときにその傾向は、私のいる大学だけではなく、全国的な傾向のようだということを言われたこともある。
 そうした人の何人かは大学院を志望する。精神的な健康さがある時期損なわれていた歴史を持つ人たちの中にも大学院を志望する人もいる。それを叶えることなく卒業していく人もいれば、実際に大学院まで進む人もいる。その是非についてはここでは語らない。私の個人的な意見は冒頭に挙げたエントリから変わってはいない。

 でも、なぜここに来て臨床心理士を志望するにあたっていじめや不登校の経験を語る人が増えたのかということは不思議に思う。これはたまたま私のいるところで起きていることなのか、それとも別の大学院でも起きていることなのかということも考えている。そんなことがあってこのエントリをあげている。

 それで思い出したことがある。

 先日、学部生と話をしているときに、どうして心理学を学ぼうと思ったのかを聞いたことがあった。その時に多くの人が臨床心理学のイメージとしてスクールカウンセラーをあげ、その少なくない人たちがスクールカウンセラーが役に立ったとは思えないことを口にした。そうなのかもしれないし、そうでもないのかもしれない。でも、それならどうして臨床心理や心理学を学ぼうと思ったのかとさらに尋ねてみたら、自分はもっといいカウンセラーになろうと思ったからと答えた学生もいた。
 そういうものなのだろうか。
 医学の限界を感じて医者を目指す、あるいは医者に助けられて医学を志す、先生にあこがれて先生になる、先生のような先生にはならないと教師を目指す、お母さんみたいになりたいとかお母さんみたいなお母さんにはなるまいとか、そんなことが頭の中を駆け巡る。別にきっかけは何であっても構わないのだろうとは思う。それがこれからに生かされて、良いことと悪いことが程々のところでバランスをとって、つまりは程々の良さと程々の悪さに収まっていることが達成されていればいいのだろう。弱さと強さが同居して、それが混乱ではなく平穏に寄与していればいいのだろう。

 1995年度から始まったスクールカウンセラー制度の導入は「スクールカウンセラー活用調査研究委託事業」として、国の予算で行われていた。2001年度からは「スクールカウンセラー活用事業」として、2004年度からは「スクールカウンセラー活用事業補助」として、各都道府県および政令指定都市が予算の半分を負担しつつ、配置校が拡充された。2005年度には全国の公立中学校への全校配置。そうした流れの中で現在の臨床心理士の資格をめぐるさまざまな議論も生まれていったのだが、そうしたことは別にして今の大学4年生が現役生だすると、中学生だったのがほぼ10年前になる1999年度から2001年度の間、今の大学1年生はいわゆる「ゆとり」教育がはじまった2002年度に中学入学を迎えている。ちょうどスクールカウンセラーという存在がメディアにも出始め、実際に彼らや彼女らの回りにそうした人が現れ始めた頃、ということになる。
 多分、その頃から臨床心理士という名前もよく知られるようになり、今では収まりつつある臨床心理士ブームも生まれてきたのだろう。彼らや彼女らはこれまでのどの世代も経験したことのない、心を育てるという国家的事業にさらされてきた世代なのだ。

 もう少し前の時代、カウンセリングや心理療法を受けている中で、クライエントが将来カウンセラーになりたいと言ったら、私たちはいくらか醒めた思いでその言葉を受け止めていたように思う。そこには同一化があり、理想化があるように思うからだ。それがはたして防衛的なものなのか、より現実に関与するよう本人を方向づけるものであるのか、私たちはそのことをあまり問うては来なかったように思う。それが問うべきものだったのかも分からない。
 けれども、こうして過去のカウンセリング経験を語り、それを自己像として取り入れてきた学生たちが臨床心理を学び、大学院を受験するようになったとき、そしてもしもこれが私の周りの経験だけではなく、あちこちで起きていることなのだとしたら、これからこの業界に何か大きな変化が訪れるのだろうかということぐらいは考えてみてもいいのかもしれない。
 これまで心理臨床というものはあまり日の当たらない領域の仕事であった。心の病というものが光にさらされることに耐えられないものであったからだ。今この領域で働いている多くの人は、したがって(といっていいかどうかは分からないけれども)精神的な疾患や精神的な問題というものがあるということ、あるいはそれがどのようなものであるのかということを、実際に現場に出てみるまでは知らなかった。私たち(あるいは私たちの社会)はまずそうした人々を知り、それから私たちが同じ人間であることを発見する必要があった。
 しかし、その状況は変わりつつある。うつは心の風邪と言われるようになり、発達障害についての知識も広まってきている。精神病者が社会の中で生きていくこともある一定の理解が得られるようになってきている。それが良いことなのか悪いことなのか、私にはよく分からない。でも、ちょっとした症状を持って、ちょっとした服薬をしている学生の数は数年前に比べると圧倒的に多くなっている。臨床心理学の名前も広まり、今ではその実践を通過してきた人たちがそれなりの数、生み出されている。彼らや彼女らは、身をもって心の問題を、そしてそれに対応する心理臨床の良さと悪さを(けれども、臨床心理について学べる環境に身を置いているという意味では、どちらかというとその良さを)知っている存在なのだ。河合隼雄の文化庁長官就任と平行する、文科省の心の教育の成果を、臨床心理業界の果たしてきた成果を、その心に内在化させた存在なのだ。

 大学院の受験に際して、彼らはその身をもって学んだことが、これから誰かのためになるか、それを誰かのためにするよう学ぶだけの力を持っているかを試されることになる。しかしそれと同時に、私たちも、私たちが行ってきたこの10年間の歩みを試されていることになるのだろう。そんなことを考えさせられる。

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コメント

試験を受けるのも、入学するのも、背景にどのようなことがあるかは、この際、考えなくてもいいと思う。問題は、入学してから、臨床心理士になるまでのトレーニングの仕方とさらに資格を取ってからのトレーニングの両方だと思う。教育分析をきちんと受けているのかとか。

あたしもいわゆる「すねに傷持つ者」だけど、臨床心理士になろうとは思わずに、なぜ、「傷」となったのかのプロセスを最初からたどって、説明付けたいと思った。それはそれとして。

で、アメリカを見れば一目瞭然だけど、大学院に入ってからの臨床心理の教育は中途半端ではない。はっきり言えば、日本の多くの臨床心理の院生なんて、自分のもつ病気っていうかそういうところがありすぎて、最初のセメスタでついていけなくなって、ドロップアウトだろう。そういう、振り落とす機能もあるのだ。なお、この最初のセメスタでドロップアウトっていうのは、臨床だけでなく、社会心理とか認知とか、発達でもそうだった。必ず、数名はやめていく。
 
 そういう教育する側の状態が安易だから、日本の臨床心理の大学院は、あまりにも「あいまいな存在」になっているのではないか?あるいは、心の傷を持ったまま入学し、卒業していけるのではないか?

 私は、こういうのは試験を受ける側の問題ではなく、こういうアバウトな大学院を作った側の問題なのではないかと思うのである。

投稿: ロリーポップ | 2008/07/22 12:28

>ロリーポップさん

 コメントありがとうございます。なかなか大きなテーマになりそうなコメントですね。

>はっきり言えば、日本の多くの臨床心理の院生なんて、
>自分のもつ病気っていうかそういうところがありすぎて、
>最初のセメスタでついていけなくなって、ドロップアウトだろう。

 正直に言えば、アメリカ並の教育にきちんとついていける学生は病気であろうとなかろうとかなり少ないのではないかと思います。去年外国に行ったときに話をした留学生から聞いたのは、おっしゃるように社会心理の先生の演習の大変さでしたが(その人は発達心理の専攻でした)、逆に教員の側もかなり準備をする必要があるのだろう、と自分に重ねて思ったりしていました。
 少しずれますが、向こうはそれだけ自分の研究にかける時間があるのですよね。聞いた話では学部の講義が学期に1コマとかなのに対し、日本ではかなり少ないとされる国立でも2、3コマはありますし、教育に力を入れていることを売りにする大学は多いですし、その雰囲気は大学院まで続いていますし、そうした中での臨床教育、というのは本当に必要な厳しさを維持できているのだろうかとは疑問に思います。

 その辺は日本における教育観、あるいは教育の価値も含めて、ちょっと長くなりそうなので、機会があればまた別のエントリをあげてみたいと思いますが、良くも悪くも日本は手をかけ、面倒を見る文化なのだろうなと最近ちょくちょく思います。

投稿: nocte | 2008/07/24 02:20

日本はまだカウンセラー(修士号保持者・日本のでいうところの臨床心理士)とサイコロジスト(博士号保持者・アメリカでいうところの臨床心理士)との差がついていないところがあるので、それが問題なのかもしれませんね。

サイコロジスとは、学術的にも職業的にもカウンセラーよりトレーニングを積んだ、カウンセラーの上位資格と考えてもらえればいいのですが、大学で教えられるのは、僕が知る限りこのサイコロジストだけです(ちなみに、サイコアナリストはカウンセリングとはまた異なるトレーニングを要し、異なる倫理規定の下に働く異なる専門職なのですが、日本ではこの辺りも曖昧なところがあるような印象を受けています)。

大学院はあくまでも学術的な場であって、治療の場ではないので、専門的なこと(理論や技法や倫理など)をしっかり学べれば学生の精神状態は問わなくていい(というよりも、問うべきではない)と思うのですが、日本はライセンスを取るまでのSVの数がアメリカと比べて圧倒的に少ないのでこの辺りが問題になるのかもしれませんね。

また、カウンセリングのプロであっても、アカデミーのプロでない修士保持者の臨床心理士が大学で働ける状況を考えると、カウンセラーになるプロセスと治療のプロセスが混同されている可能性はありますね。

投稿: DT | 2008/07/25 21:53

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