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2008/06/29

MBTとパラノイア

 MBTの本を読みながら、ずっと引っかかっていたことがある。それはFonagyが来日した際のセミナーでは境界性人格障害に限定しての治療プログラムとしてMBTを紹介していたし、著書自体も境界性人格障害の治療として書かれているにも関わらず、ところどころに反社会性人格についての記述がある点だ。もちろんMBTはプログラムの作り方によって境界性人格障害以外への適用も可能ではあるだろう。それでもなぜ、という疑問が消えなかったのだ。

 最近思うのだけど、ある種の犯罪者、特に衝動的な殺人や殺人未遂にいたる犯罪者が持つ対象関係はかなりパラノイックなものかもしれない。多くの場合そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれないけれども、そんなことを思ったのは、alien selfの外在化について考えていたからだ。Fonagy(ら)が言うalien selfの外在化という概念は、そうした人々の状態を説明するうえで、使い勝手が良い概念であるように思える。

 殺人や殺人未遂のある種のものは、激しい怒りと同時に強い恐怖感にも彩られている。もう少し正確に言うと恥の感覚と言った方がいいのかもしれない。恥の体験が個人の自己に解体を体験させることはしばしば言われることであるけれども、そうした恥はいつも外部の他者によってもたらされる。それは実際に辱められる体験でもあるだろうし、関係が深まった際に生じるズレを恥として体験しやすい何らかの傾向による場合もあるだろう。いずれにしても、個人は堪え難い屈辱を体験する。これを解消するには外部の他者を自分の周りから消すしかなく、自分が去ることは屈辱に屈辱を重ねることになるだろうし、逆に相手を打ち負かすことはこの屈辱を晴らすように思えるだろう(実際に気が晴れることもあるだろう)。そうして他者の存在は暴力的に消し去られる。
 繰り返しになるけれども、この時に他者は自己を辱め、脅威を与える存在である。この他者であるところの対象を生み出しているのがいつもではないにしてもalien selfの外在化であり、対象関係論的に言えば投影同一化である。両者はともに、その対象関係をパラノイックなものにする。余談ではあるけれども、刑務所でこうした関係に巻き込まれるのは、精神科の病院でこうした関係が展開することに比べると、ずっと私たちの恐怖感を強める。病理を抱える施設のシステムとしての成熟の程度も違えば、実行可能性という意味での現実味の程度も違うからなのだろう。それはともかく、こうしたパラノイックな関係の形成に与る両者の違いは、前者はそもそもが自分でないものであり、後者はそもそも自分のものであるという点にある。alien selfは不適切なmirroringによって形成された、収まりの悪い、同一性を障害する自己の部分であり、投影同一化に含まれるものはKlein派的には死の本能であり、良い自己への防衛の手段である。捉え方としては。どちらがより適切な理解なのかは分からない。

 私がalien selfの外在化という概念の使い勝手が良いように思えると言った時、それは投影同一化と比較してのこうしたalien selfの由来や理解そのものよりも、もう少し治療の枠組み全体としてのMBT的な発想が使い勝手が良いということを考えていたのかもしれない、と書いていて思った。パラノイックで、衝動的で、恥を強く体験する関係を転移として扱うことは、私たちにとっても、受刑者にとってもかなり負担が大きい。受刑者にとって負担が大きいということは、受刑者を抱える刑務所にとっても負担が大きいということである。それが良いか悪いかは別の議論になるが、少なくとも刑務所は医療機関ではなく、そうした精神病理を抱えるだけの制度も慣習も発想もない。そうした中でパラノイックな対象関係を内的世界のこととして扱うのは困難である。
 もしかしたらそうではないという人がいるかもしれないけれども、少なくとも私には難しい。受刑者は刑務官によって面接の場所まで連れてこられ、刑務官によって連れて帰られる。受刑者が暴力を振るった時のために、机には無線のボタンが置かれている。ボタンを押すと刑務官のいる部屋でサイレンが鳴り、彼らが部屋になだれ込んでくる。薬の調節は1ヶ月に1回あるかないかで、状態が悪化すれば医療刑務所へと移送されることになる。移送の手続きには時間がかかり、物理的にも距離が離れている。1日のスケジュールは全て決められており、柔軟な変更はない。状態の変化にどのような意味があるか、心理的な意味で理解されることはなく、必要なことは定められた懲役に努めるか、決められたスケジュールに合わせられるかということである。言うまでもないことだけれども、私たちが内的世界を扱うということは、それを抱える環境のあるところで初めて行うことができることなわけだ。
 そのようなわけで、もう少し現実的な要素を組み入れたmentalizationの促進、という方法は、案外こうした場所での適用にふさわしいものなのかもしれないと思う。パラノイックな関係が展開し、私たちが彼らの目に迫害的で辱める対象として映った時に、精神分析的作業はその分裂妄想的な世界を維持し続けながら行われるが、mentalizationを促すアプローチはむしろその分裂妄想的な世界が実際の現実からはズレていることを指摘する。私が本人をどう思っていると思ったのか、どんなところからそう思ったのか、私がどう思っているかについて他の可能性はないか、実際に私は本人をどう思っているか、そうしたことを話し合っていく方法は、いわゆる退行を促さない方法であり、所内での適応の水準を悪化させない方法であると思う。

 そんなことを考えていると、MBTとは境界性人格障害の治療プログラムとしての特徴よりも、むしろこうした妄想分裂的な世界をどう取り扱うかということについての方法論なのかもしれない、と思ったりする。思ってみたりするだけなのだけど。

 Fonagy自身の関心は多分、境界性人格障害の治療にもあるのだろうが、もっと攻撃性の問題を抱えた、しかもそれが現実に行動化されるような人々にも向けられているように思えて、それがMBTの本の中に反社会性人格の話が出てくることにつながるのではないかと思うのだ。

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