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2008/05/17

Peter Fonagyについて(5)

 表記のタイトルで行ってきた一連のエントリですが、出口が見えなくなっていたところでpsy-pubさんから質問をいただきました。答えるのが難しい質問ではありますが、エントリの進むべき方向を示してくれる重要なところに触れているあたり、さすがpsy-pubさん、という気がします。これに答えながら、少しエントリをまとめていきたいと思います。

 最初に、psy-pubさんの質問をまとめつつ引用します。

……実証性という観点についてですが,概念および介入を精緻にシンプルにしていくというところで,全体として受けるのは,分析理論そのものというよりも,分析理論ないし愛着理論をベースにした評価というかアセスメントをもとにしたテクニカルな治療全体の枠組み(変な日本語です)という印象なのですが……エヴィデンスを出しにくいといわれる力動的な精神療法との違いについて……何が実証という点において利いているのか,および,そしてそれが実際の臨床上の有効性につながるのか……。
あともうひとつ……よく弁証法的行動療法(DBT)が引き合いに出されているような気がするのですが……実際のアプローチにおいて,共通する点もいろいろあるといわれているように思うのですが,どこらへんが似ているのでしょうか。そしてそのことは心理療法の統合という観点から,どのように評価できるでしょうか……。
……MBTにおける「実証性」と「DBTとの共通性」と「心理療法の統合」について,一言ずつ……。

 分析理論そのものに関して言えば、彼らの発達のモデルはmirroringの重視、およびそこに含まれるreflectionやmentalizationというα機能ないしはもの想いの強調、と従来の精神分析的な発達論と大きく変わるところはないように思いますが、それらの重要性や人格発達への寄与を裏付けるような実証的研究を整理しているところが彼らの理論的作業の中心なのだろうと思います。現在その射程は脳神経科学にまで広がっていますし、愛着理論もそこを新たな領域としていますので、また脳神経科学の中でも精神分析への関心が払われたりしているようなので、その辺りの広がりが今後期待されるのだと思いますが、発達論として新しいことを言っているようでそれほど新しいことは言っていないのではないかと感じています。

 ただ、母親のmirroringを中心に、(1)個人の主観的体験の様式と自己の発達に寄与する現実の養育者の役割が強調されている、(2)特に境界性人格障害に関して虐待の影響を重視している、(3)それに関連して脳の発達上の障害を考慮している、(4)また、対象関係よりも自己の発達が発達論の中心にある、(5)とりわけ同一性の維持が重視されている、という点が特徴であるように思います。そのため、境界性人格障害の病理の説明とアプローチが、特異な脳の障害、それと関連した主観的体験の様式、表象としての自己と主体としての自己の障害、それによる同一性の障害から引き起こされる防衛、の観点からなされるわけです。これらの点は対象関係論的な立場とは非常に近しいながらも大いに異なるところで、しかしその病理が対人関係において展開することを強調する点では共通しています。そこに生じるのが「alien selfの外在化」なわけです。
 したがって治療の眼目として、あるいは病理の要因として、これらの問題を束ねる(あるいは束ね損なう)養育者、個人、そして治療者のmentalizationの能力が何より重視されてきます。

 そうした特徴が実際に形となって現れているのがMBTなのではないかと思いますが、その形態の違いは精神分析的アプローチが基本的に個人療法であるのに対して、MBTはチームアプローチであるなど、どこからどこまでを説明したらいいかが分かりませんので、とりあえず脇に置いておいて、実証性ということに関してコメントをすると、MBTの特徴は「対人関係に焦点化され、そこでの他者や自分の内的状態を理解する能力に焦点化されている」こと、それによって実証性を保ち、効果研究を可能としていると言えるのではないかと思います。

 一般に境界性人格障害の特徴は(1)不安定な関係、(2)情動制御不全、(3)衝動性、(4)精神病的症候、にまとめられ、彼らもそれを踏襲していますが、親密な対人関係、つまり愛着関係こそが個人の情緒に揺さぶりをかけ、これらの問題を浮かび上がらせると考えているようです。この対人関係には面接室外の対人関係も含まれますし、面接室内の転移関係も含まれますし、それが明示的に語られるものであることもあれば、暗示的にしぐさや雰囲気や口調に表されるものであることもあります。いずれにしても対人関係こそが治療の舞台であり、また道具でもあるわけです。治療者の介入は個人の対人関係のあり方と、そこでのmentalizationに焦点化されています。
 ちなみにKernbergのモデルにもとづく、Transference Focused Therapyにおいては転移関係が治療の焦点となり、その転移関係とそこでの対象関係を解釈していきますので、両者の違いは何を焦点にするか、それをどう取り扱うかということになるでしょう(MBTでは解釈はそれほど重視されませんので)。
 いずれにしても「実証」ということを考えた際には、この焦点が絞られているということが重要なのかもしれません。なぜなら、それはそのまま何を結果変数にするかということにつながっていくからです。焦点の絞られていない治療法が悪いとは私は思いませんが、そうした場合何を持って変化したと論じるのか、数量的に把握することが困難になります。実証性のために焦点化することが適切な取り組みだとは思いませんが、病理に合わせて治療を焦点化することで、実証研究にも乗せられるのであればそこにはそれなりの利点があるでしょう。彼らの場合は上のようにmentaliztionとその舞台となる対人関係が焦点となりますので、結果変数にはしばしば用いられるSCL-90-R、IIP、HCMI、人格機能の変数(すみません失念しました)などとともに、reflective functionが重要な指標として登場してきます。

 別の言い方をしながらまとめれば次のようになるかもしれません。MBTは治療を構造化しています。その焦点は対人関係とそこでのmentalizationにあり、転移も解釈も空想もそれほど重要ではなくなります。これらが力動的精神療法との違いであると思います。彼らは境界性人格障害の治療において、治療が構造化されていることが何より重要であると述べており、1つにはこれが臨床上の有効性につながります。この構造には対人関係とmentalizationへの焦点化が含まれており、これが個人にも治療者にも取り組むべき課題と目標を分かりやすく提示します。これがもう1つの臨床上の有効性です。さらに焦点が絞られていることで、その効果も分かりやすくなり、数量化すること、効果研究を行うことも可能になります。
 以上が実証性に関する私なりの回答というか、理解です。

 DBTとの共通点については、私のDBT理解がLinehanのビデオとFonagyやBatemanが語るDBTを通して得られたものに限られることを断った上で、これらについて述べると次の通りです。

 1つ目の、そしておそらく最も重要な共通点は、両者が非常に高度に構造化されているということだろうと思います。先に述べたように境界性人格障害の治療において「構造化されていること」は非常に重要な治療因子であるようです。この構造化には、個人セッションをどのくらいの頻度で持つか、集団精神療法はどのくらいか、表現療法などの他の治療法はどうか、薬物療法についてはどうか、それらは互いに治療のどの部分を担当するのか、それらは誰によって担当されるのか、複数の治療者あるいは治療スタッフは互いにどのような役割を持つのか、その間の連絡はどのようになされるのか、治療の目標は何か、それはどのような視点からアセスメントされるのか、誰によって設定されるのか、それぞれの治療法において初期の目標は何か、そのために何をするか、何に焦点化するか、特定の問題が生じた際にはどのように対応するか、患者に課せられる課題は何か、中期ではどうか、後期ではどうか、治療の終結をどのように判断するか、どのように判断するとどのように患者に伝えるか、実際にどのように終えていくか、録画や録音はするのか、それらのスーパーバイズはどうするか、どのようなトレーニングを行うのか、そういったことが含まれています(思いつくままに羅列しています)。この構造がしっかりと維持されることが、安定した不安定さを抱える境界性人格障害患者を抱える上では欠かせないだろうと言われているわけです。
 もう1つの共通点は「妥当化validation」の使用かもしれません。両者とも個人が感じている情緒的体験をそれ自体正当なものとして妥当化します。MBTにおいては治療者は基本的に中立的な姿勢を保ちますが、それでも特定の文脈で個人がある衝動、感情、行動を持つことに対して、それは理解できる、という姿勢を示します。
 も1つは共通点は養育環境の重視です。DBTでは非妥当化環境invalidation environmentと呼ぶようですが、MBTでは上で述べたようにmirroringの障害がそれにあたります。もちろん両者には虐待的体験が含まれています。

 ちなみに違いについては、境界性人格障害の病理の理解、介入の焦点、介入の方法、結果変数、それぞれにおそらくあります(違いを意識することが多く、共通点を意識してこなかったなとこれを書いていて気付きました)。まず境界性人格障害の病理の理解ですが、両者とも情動制御不全に注目しているところは同じですが、MBTにおいてはさらにそれが愛着関係、あるいは対人関係において生じること、そこにmentalizationの不全が関わっていることを想定しています。そのため介入の焦点は対人関係とmentalizeの在り方にあてられ、介入の方法は自分や他者の心の状態の理解について話し合うことが中心になります。対人関係上のスキルの獲得は補助的な役割になります。これに対して、DBTでは情動制御不全に焦点を当てながら、もともとが自殺への介入から発展した方法であることもあって、自殺しないことが最も中心的な目標になってきます。そのために情動制御、特に情緒をありのままに受け入れることと同時にその苦痛な情緒が変化していくことの弁証法が導入されていきます。さらにグループでの対人関係スキルの獲得が重視されます。治療関係そのものは(病理が発展するという意味での)治療の舞台とも道具とも捉えられていないかもしれません。共通点に上げた妥当化にも微妙な、しかし重要な違いがあります。結果変数については本当に分からないのですが、DBTにおいては自傷、自殺企図が重要な変数となっているような印象を受けます。
 3月にあったMBTのセミナーにおいてFonagyはDBTは自殺の症状がなくなってしまうと患者へのアプローチができなくなるが、MBTはできる、ということを言っていました。それが実際にどの程度そうであるかは分かりませんが、確かにそう言うこともできるのかもしれません。

 私が不勉強なこともあって、2つ目の質問について答えられることはこのくらいです。

 それを踏まえて、心理療法の統合についてですが、これは本当に分かりません。境界性人格障害の治療にいずれも有効とされるDBTとMBTにおいてさえ、上のような違いがあるわけで、おそらく特定の病理に関する特徴は共有されても、その説明や強調点の置き方には違いが出るでしょうし、例えばMBTは特別なトレーニングを受けない人も参加できるように作られており、そうした治療機関の要請に合わせることでも異なる治療形態になっていくのだろうと思います。しかし、それでも確かに共通点もあるわけで、統合の可能性がないとも言い切れないのでしょう。
 でも私の個人的な感覚としては、心理療法に統合はない、という気がしてしまいます。なぜ自分がそう思うのかがまだ分からないのですが、正直に言えば、心理療法の共通点、共通して作用するものに関心はあっても、統合には関心が持てない、というのがより正確なようには思います。もっと言えば、例えばevidenceを積み重ねていくことでより良い1つの治療法に辿り着くということについて、それが患者やクライエントに益するように聞こえたとしても、それは幻想に過ぎないのではないかと思っているのです。むしろいくつかの方法について、その共通点と差異とを確かめながら自分の立ち位置と患者・クライエントへの適不適を考える方が魅力的に思えています。なぜなのでしょうね。
 もしかしたら、精神分析家たちがいろいろな言い方で表すように、心理療法は個人の人生に関わっていて、病理は生きることの病だと私が思っているせいかもしれません。1つに統一された生き方はなく、危険性を孕んでいても多様性は良いことであると思っているからかもしれません。

 もう1つのコメントでpsy-pubさんが発言されたことを踏まえて言えば、MBTは精神分析に比べると、第一に境界性人格障害だけが対象であり、第二に焦点が定められ介入法が定められており、第三に転移と空想の解釈がそれほど取り上げられない、第四にその発達論、という点において、精神内界を重視するのではなく、より現実の側に足を置いた治療法だと思っています。それは例えば、Winnicottがplaying and realityと言うところを、Fonagyはplaying with realityと言うところにも現れていると思います。この現実的であるというところがこれまでの精神分析への批判に応えているところであり、他の治療法との間に橋を架けているところでもあり、しかしそのために精神分らしさを幾分失っているところでしょう。
 私個人としてはそれはそれでありだと思っていて、でも自分がこれに取り組むかというとちょっと考えてしまいます。そのこと自体が今の私の評価なのかもしれません。私はもっと空想に触れていきたいのかもしれません。構造化されていることが個人についていくということに合わないように感じているのかもしれません。それはもしかすると私の勘違いなのかもしれません。
 それでもFonagyらが言うようにMBTは現場に合わせて形を変える変容性を備えていて、MBTの本を読んだ私の中にもそれなりの形で入り込んでいるのだろうとは思います。一番上の方で書いたように様々な領域への広がりも含んでいます。これをalien selfとするか、同一性と一貫性をそこに見いだすかはそれを語る人の語り方次第なのかもしれません。

 答えになっているでしょうか。



 最後は本当に個人的な感想でしかありませんが、以上のようなところを私なりのこの一連のエントリの終着点にしようと思います。この後補足的に前回のエントリの続きに当たるalien selfの取り扱いという、MBTの治療的側面について書くこともあるかもしれませんが、このままいくとMBTの本を1冊紹介していくことになるのかなと思って、それなら本を読めば良いのではないかと思え、ほどほどのところで終わりを作ろうと思ったのです。また、私はMBTを理論的には理解できても、実践はできませんので、これ以上進むことにも躊躇があるのです。
 もちろんこの後も質問やコメントをいただければ、私の勉強にもなりますので、私なりに答えていきたいと思いますが、そのようなわけで、このシリーズはここで一応一区切りにしようと思います。分かりにくかっただろうとは思いますが、お付き合いいただきまして、ありがとうございました。

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コメント

Mentalizationを検索して辿り着きました。

昨年Fonagyが所長をつとめるAnnaFreudCentreで院生をしていて、メンタライゼーションセラピーのプロジェクトにほんの少しだけ参加していました。

当時、理論はわかっても、どう実践するのかがピンとこなくて、メンタライゼーションセラピストにお話も聞きましたが、MBTは認知療法に近いのかな、という印象ですが、どうなんでしょうか?(メンタライゼーション自体が認知の過程も言及しているので、当たり前なのかもしれませんが。)未だに理解が正しいのかわかりません。

分析というよりは、クライエントの話す内容や表現を、「これはBad-mentalization。これはGood-mentalization」というように捉えていって、Good-mentalizationを促していこうという感じでした。
一方で、Fonagy自身も、Mentalizationは能力というよりも相手を理解しようとする態度だと述べていますので、クライエントの自己や他者に対する態度を変えていくことを狙いとしています。

FonegyのHandbook of Mentalization-Based Treatmentは実践について比較的詳しく書かれていると思います。

投稿: らく~ん | 2008/05/30 23:33

>らく〜んさん


 初めまして。コメントありがとうございます。
 イギリスにいらっしゃるんですね。うらやましい環境です。

 認知療法との違いですが、観念的なことかもしれませんが、心を心として理解し、取り扱うというところが最も違うところのように思うのですが、具体的には焦点や目標を明確にして、それを中心に治療を構造化するので、認知療法なり認知行動療法なりに近くは見えるかもしれませんね。
 でも、どうでしょう、語っていることexplicit語られていないことimplicitに現れる患者の心の状態を理解しようとすることは認知療法などの枠組みにはないように思いますし、いろいろな行為を背後に動く心のあるものと見るかどうか、患者にもそうした見方を求めるかどうかというところは大きく違うところではないでしょうかね。

 それでも、精神分析とはやはりいろいろ違って、そもそも無意識を扱っているのかという疑問、とか、象徴解釈はしない、とか、多分防衛の解釈もしないのではないか、とか、思うところはあるのですが、Fonagyらが来日した際に、Batemanに精神分析よりも愛着理論に近く見える、と言ったら渋い顔をされましたので、精神分析の流れという意識ははっきりしているのでしょうね。

 というか、私よりもFonagyがすぐそばにいる環境のようですので、是非また逆にいろいろ教えてください。

投稿: nocte | 2008/06/01 14:22

ありがとうございます。
認知療法の臨床には正直あまり詳しくないのですが、「心を心として捉える」という点に、なるほどと思いました。

メンタライゼーションの理論自体が、精神分析から発しているものの、認知心理、愛着理論との融合を目的としてるところがありますので、線引き自体が難しいのかもしれませんね。最近の愛着理論に関する書籍には、メンタライゼーションについて触れているものが多いですし、MBTについては「認知的過ぎる」と精神分析的アプローチから批判があるのも事実です。

MBTとひとくくりに言っても、家族療法的なアプローチをするもの、認知的なアプローチをするものなど、色んなメソッドがあるようですが、いずれにしてもDriveや無意識を重視しない、というのは私もそういう印象を受けています。でも、渋い顔をしていましたか・・・。coldsweats01

Adult Attachment QuestionnaireやReflective Functioning Scaleなどの質問紙の利用、エビデンスベースな点を見ても、精神分析ではないのでは?とも思うのですが、Fonagyお得意の「精神分析に色んな他分野の要素を取り入れて、精神分析的アプローチのリミットを越えた」精神分析、と捉えるのが、いいのかもしれませんね。

投稿: らく~ん | 2008/06/01 19:34

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