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2008/04/14

解釈の仕方

 諸般の事情でPeter Fonagyについてのエントリが遅れている。お待ちの皆さんすみません。そんな人がいればという話だけれども。今、そのFonagyのMBTの翻訳を読んでいるのだが、そこで気になったことを1つ。

 この本の中にも記載があったかもしれないが、MBTのセミナーの中で、Fonagyらは精神分析における解釈とMBTにおける介入の違いを「精神分析家は知っているという態度で解釈をするが、我々は知らないという態度で患者さんに教えてもらう」という主旨のことを言っていた。同じようなことをBowlbyも確かSecure Baseの中で書いていた。精神分析では「私は知っています」と言う。でも私は「あなたが知っています」と介入をする。そんなようなことだ。
 精神分析においては解釈が重要な臨床的介入の方法であり、それは無意識を扱っている。そのため解釈される内容は個人の意識の外にあることであり、本人の知らないことを分析家が解釈をするという図式が成り立つ。したがって分析家が「私は知っています」と解釈をするということになるのだろう。これに対してBowlbyは個人の語る過去を空想ではなく実際にあったこととして捉えることもあって、なぜ転移的な関係のような矛盾し歪んだように見え現実に一致しない知覚をするのか、その理由となる過去の出来事を「私は知りません」、「あなたが知っています」と関わっていくことになるのだろうと思う。
 その記述はもちろん精神分析との対比という以上に、精神分析家の傲慢さや万能感への批判を含むものではあるが、私の実感として、精神分析家の解釈がそれほど断定的に行われるとは思ったことがなかったので、Bowlbyの本を読んだ時にはそんなものかなと思ったりしていた。Bowlbyがこの本を出版したのは1988年だったので、その時代まではそんなこともあるのかなと思う程度だった。でも、少なくとも私のSVや私が研究会に出ているところで見聞きする態度は、それほど心理療法家がすべてを知っているという態度ではなかったのだ。もちろん解釈の仕方はある程度断定的な形をとる。人によっては仮説的な「〜でしょうか」という形での解釈の仕方もあるけれども、「〜なのですね」とか「〜なのでしょう」というある程度確信的な解釈の仕方は多いように思う。けれども、その解釈が個人にどのような影響を与えているか、それがどう響いていくのか、そうしたことが解釈とともに把握されていくのであって、解釈にはその解釈の有効性についての査定が伴うのだと思う。解釈が個人に変化をもたらすことがいつでも期待できるわけではない。教科書的な記述ではそうだとしても。

 そのようなわけで、Fonagyが今になってBowlbyと同じようなことを言っているのには驚かされたわけだ。Fonagyの場合はBowlbyとは違って、解釈とは治療者によるmentalizationであって、重要なのは患者がmentalizeしようと試みることであると言っていて、分析家の傲慢さや万能感への批判というよりは、もっと実際的な意味でmentalizationの機会を患者から奪ってはならない、ということを言っているのだとは思う。それでも、彼らにとっても精神分析における解釈はかなり断定的なものであり、また「正しい」ものであることが前提になるのだなと思うと、海外の分析家はどのような解釈をしているのだろうとあれこれ考える。
 私たちは思いつくままに解釈をしているわけではないので、最も適切に思える解釈をある程度の確信とともに個人に伝えていくけれども、それは私たちの解釈が正しくて、個人がそれを否定したり受け入れなかったからといってその態度をすぐに抵抗とみなすということを意味したりはしないのだけれど、そう思っているのは私だけなのかなと思ったりもしてくるのだ。

 みなさん、どんな解釈の仕方をしていますか。

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コメント

はじめまして、DTと申します。大変面白く読ませていただきました。

Fonagyの指摘する、精神分析家の解釈の態度は古典学派との比較かもしれませんね。「知っている」「知らない」という軸での解釈は、知的洞察を前提とした初期の分析的傾向で、最近の精神分析では「感じる」「感じない」という情緒的な軸を中心に介入が行われているような印象があります。

言語的な解釈は、非言語的な介入へと焦点が移ってきていますし、抵抗の概念も、"自由連想への抵抗"という考えから"情緒交流への抵抗"と重点を移動させてきている印象があります。

Fonagyらにとっての、Mentalizationの機会とはどういうものか、もしご存知ならお教え下さい。大変興味があります。

投稿: DT | 2008/04/17 12:01

>DTさん


 はじめまして。
 おっしゃる通り、彼らの批判と比較の対象は古典的な技法であるように思うのですが、Fonagyに関しては21世紀になってからも書いていることですので、決して古典的な技法を指してのことではないのだろうなと思うのです。
 また、BowlbyにしろFonagyにしろ彼らの言う「知っている」「知らない」は解釈の軸というよりも、心理療法家の態度といったもので、事実や主観的体験を知っているのは患者さんなので治療者が無意識を解釈するような、本人の知らない心を知っているかのような態度は適切ではない、という話なのだと思います。情緒的な交流についてはBowlbyはほとんど触れていませんし、Fonagyはおそらく直接的には触れていませんが、現代精神分析の流れらしく転移−逆転移は重視しているので、情緒的交流への抵抗という考えともなじむでしょうね。
 Bowlbyはともかく、Fonagyはそうした現代精神分析の潮流を知らないわけではないだろうに、というところが疑問であったのと、ひょっとするとそれでも比較的断定的な調子で解釈は行われているのだろうかと思ったのであげてみたエントリなのです。

 ご質問に関してはちょっと長くなりそうなので、別のエントリにさせていただきました。よろしければ、そちらをご覧ください。

投稿: nocte | 2008/04/18 20:44

>Bowlbyはともかく、Fonagyはそうした現代精神分析の潮流を知らないわけではないだろうに、というところが疑問であったのと、ひょっとするとそれでも比較的断定的な調子で解釈は行われているのだろうかと

一つの可能性ですが、まず思ったことは、今でも古典学派の態度はよく現代精神分析の文献でも使われているので、

>事実や主観的体験を知っているのは患者さんなので治療者が無意識を解釈するような、本人の知らない心を知っているかのような態度は適切ではない

という話をするための単なる比喩ではないかというでした。

また、もう一つの可能性は、とても面白いポイントですね。断定的な解釈が患者のmetalizationを奪うかどうかとか、逆転移とどう絡んでいるのかなど、いろいろと連想が膨らみます。

投稿: DT | 2008/04/19 04:04

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