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2008/03/01

逆転移の豊かさ

 少し前に、保護会に関わっている心理の先生から相談を受けた。ある人の保護観察期間が過ぎたのだけど、現在の様子、および今後の措置についての資料を提出しないといけないけど、どうしたらいいだろうかというものだった。

 実刑判決を受けて刑務所で服役し、刑期を終えた者は出所を迎える。その際、家族や施設などから引き受けを拒否された人は緊急の身の寄せ場として更生保護施設(保護会)を利用する(更生保護についてはこちら。更生保護施設についてはこちら)。あるいはそこからホームレスの生活を始める者もいるけれど、それはまた別のときに。
 更生保護施設はそうして社会へ復帰する機会を求める出所者への保護を提供する役割を担っているが、その他に保護観察所からの委託を受けて、保護観察期間中の保護観察を行っていたりもする。今回相談を受けたのはそういったケースだった。

 その先生の話を聞いて私が答えたのは、保護観察を終えようとしているその人にはまだ何の変化も訪れていないのではないかということ、そのまま社会に戻っても危ういのではないかということ(この危うさはもちろん社会への脅威を意味する)、何よりその人自身が安全ではなく、どこかの施設に入っていたほうがいいのではないかということだった。その先生の話から思ったのは、その人の心は何のまとまりも保てていないということで、愛着理論はそれをdisorganizedと呼び、Klein派の精神分析家ならそれを死の本能による攻撃と捉えるかもしれないような、そうした状態だった。心はまとまりを持たなければ心として機能しない。それが生得的なものであれ、器質的なものであれ、心因性のものであれ、断片化し、まとまりを欠いた心は、それとともに生きなければいけない本人にとって破壊的である。もちろんこの場合社会にとっても脅威である。
 その意味で、社会に出ないという選択は時に有効なように思う。

 そんなふうに考えたのだけれども、そうした考えはこれまでのところ私の中にあまりはっきりとはない考え方だった。

 精神科の領域において、私たちは時々、入院という形で保護が必要な人たちに出会う。人たちに、というかそうした状況に、と言ってもいいかもしれない。司法の領域においても、時折ニュースに見られるように、保護を求めて犯罪を犯す人たちがいる。求めているものは食事であったり、寝床であったり、場合によっては手術であったりする。少し前に刑務所での「自死権」を認めないという判決があったが(こちら)、これは刑務所の処遇を問題としたものではないものの、刑務所内での処遇において受刑者に何の手当てもしないということは許されていない。その点からも官が自殺を許容することはないのだが、逆に言えば、病気の状態で実刑判決を受ければ、刑務所において必要な措置をとってもらえるということでもある。健康を害し、あるいは食べるのに困ることで刑務所を利用する人たちは少なくない(この点において刑務所はある意味生活保護と同じ機能を果たしていて、生活保護には一定の住居が必要であることを考えると、生活保護よりも利用しやすい面さえあるが、それはまた別の話)。
 けれども、一般的に受刑者は何らかの施設に入れられることを嫌がる。「娑婆」に出ていたがり、自由を制限されたがらず、その時には自分が及ぼすかもしれない社会への危害についてはあまり頭にはない(みんながみんなそうではないとしても)。娑婆に出る自由と、あるいは権利といったものと、社会の安全を守るための制約といったものをどんなふうに折り合わせるかということが、いつも私の念頭にはある。

 そのため、今回のように、施設への収容が本人にとっても社会にとっても必要かもしれない、ということを考えることはそれほどなかった。考えたことがないわけでもなかったけれども、それが選択肢として浮かび上がるとは自分でも思っていなかった。そのことに私は驚いた。

 相談を持ちかけてきた人は私なんかよりもずっと経験の長い人であって、私の言葉がどのくらい役に立ったのかは分からない。
 そして実際のところ、それは私が考えたことではないのかもしれない。それはその相談を持ちかけた先生が、保護観察の期間その人に会っていて感じてきたこと、その中で漠然と考えていたことを私が受け取った結果なのかもしれない。

 精神分析の言葉ではそうした現象を逆転移というけれども、その時浮かんだ考えはその逆転移として考えられたことなのではないかという気がする。
 つまり、私が口にした答えは、もしかするとすでにその先生の中にあった考えなのであって、あるいはひょっとしてまだ考えとして考えられてはいなかったことであったのかもしれない。けれども、どちらにしてもその先生と話をしなければ、私がそうした考えを持つことはなく、私の中になかった考えが浮かび上がってくることはなかっただろう。きっとその先生の視点、話し方、思いなどが話された言葉の中に折り込まれていたに違いない。
 まとまらない心の破壊性に、その先生はずっと触れていたのではないかと思うのだ。

 それは私の臨床にとって重要なところであるように思う。

 多分、私にとって一番大切なことは痛みに(あるいは悼みに)語りかけることなのだ。私は時々それを忘れかける。理由はいろいろある。
 空想を読み取ろうとする努力が空回りしているせいもあるし、効果的な心理療法ということに惑わされていることもある。人の傲慢さや万能感、攻撃性に目を向けすぎているせいもあるし、自分のしている関わりに確信を持てないこともある。受刑者カウンセリングでは、刑務所内での作業を務めること、再犯を防ぐことが重要であり、社会も刑期もそれほど長くは待ってくれない。そのために面接が誘導的になりがちになったりもする。
 私にとって本当に新鮮だったのは、そのような中で私が失いたくないと思っている姿勢をその先生が自然に持ち続けているところだったのではないかと思うのだ。それは意識的に気をつけておけばいいものではなく、日々の臨床での振る舞いとして、身体や精神へと同化されていなければならないものだ。
 私はそれをすぐに見失う。視野を広く保ち、2者関係だけに埋没しないことは重要なことではあると思う。でもそのことで私の軸がずれていくこともある。そうして見失いがちな私が失いたくないものを、その先生との話の中に自然な姿で見いだすことができたのだ。それは豊かな体験であったように思う。

 場合によってはこれは逆転移ではないのかもしれない。でもこの場合、それはたいした問題ではない。

 私は痛みに語りかける人でありたい。そのことが重要なのだ。

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コメント

ご無沙汰しております。

>その時浮かんだ考えはその逆転移として考えられたことなのではないかという気がする。

面接の中で発せられている私の言葉は、「相手からの投げかけによって、私の中から引き出された、相手にとって必要な言葉」であるように思います。
その際、例えば大きく分けて「相手の語りを受けて、私の中の情緒が刺激されなかった時」はアドバイス的な言葉が引き出された面接になり、「情緒が刺激された時」は精神分析的な面接になるように思います。

いずれにせよこの「相手にとって必要な言葉」を「いかに面接の中で私の中から引き出してもらうか」、そして「そのような現象が起きるような面接状況をどうセッティングしていけば良いか=いかに相手にフィットした逆転移が起きるような面接状況を作れるか」ということに、いつも気を使いながら面接をしています。

投稿: まったりねこ | 2008/03/02 09:49

はじめまして。たまに、自分が思ってもいない言葉が出ることがありますが、そういう時は、やっぱり相手の影響があるのかなといつも思ってしまいます。たとえば、いつも軽い感じで「鼻炎なの?治ればいいね」みたいに、基本的に他人事で話す友人がいて、ついでに愚痴もやたらと多く、その人とは、あんまり真面目に話すのは無駄だなと思って、ほとんど相手の言葉を受け流すように会話してしまいます。というか真面目に話すと疲れる。

まぁこれが逆転移かどうかは分りませんが、そうした方が「自然」な流れになるので、そうせざるを得ないような感じになります。でもその流れでいいのかどうかと考えた時に、まぁ話自体の内容は、僕が受け流すだけなので、深まりもしないし進展もそれほどないけれども、関係を安定させる上では、それでいいのかなと思いました。ではでは。

投稿: rhox2001 | 2008/03/09 18:01

 コメントいただきありがとうございます。なかなか返信できずにすみません。


>まったりねこさん

 どうもありがとうございます。

 面接での介入は基本的に逆転移ではないか、という発想でしょうか。確かに、私たちの思うことが患者/クライエントの言葉や態度との交流においてなされることを考えると、そう仮定することは可能ですが、あまりそこまで考えたことはなく、新鮮な感じがしました。
 今回のエントリは、あくまで「私の中にはなく、その先生の中にはすでにあった(かもしれない)考えを私が思いついた」という部分に限定しているのですが、それ以上の広がりもありうるということですよね。

 ちなみに「そのような現象が起きるような面接状況をどうセッティングしていけば良いか=いかに相手にフィットした逆転移が起きるような面接状況を作れるか」ということについて、何か具体的に考えていることがあるでしょうか。もしあれば教えてください。
 それとその場合、私たちの主体性というものはどこに存在するのか、など。状況を設定することの中に?

>rhox2001
 私が読み違えていなければ、「たとえば、」とあげていただいた話は「思ってもいない言葉が出ることがある」という話ではなく、「受け流すように会話」することが「自然な流れになる」ということですよね。まったりねこさんのご意見と一緒で、やはり、やりとりが基本的に逆転移からなっているのではないだろうか、という話であるように思いました。

 興味深く思います。

 その場合、同じ質問なのですが、私たちの主体性というものはどこに存在するのでしょうか。その「受け流すように会話」することを許容している部分なのでしょうか。
 よろしければ、お聞かせください。

投稿: nocte | 2008/03/11 00:49

こんにちは。

ちょっと横ヤリですが、まったりねこさんの

>その際、例えば大きく分けて「相手の語りを受けて、私の中の情緒が刺激されなかった時」はアドバイス的な言葉が引き出された面接になり、「情緒が刺激された時」は精神分析的な面接になるように思います。

というところに少し違和感を感じました。精神分析的なセッティングをするということ自体にすでに契約がなされているわけで、刺激されたか刺激されなかったで区別するのはどうなのだろう?って思いました。

また「情緒を刺激されなかった」ということ自体が情緒を凍結させるような転移/逆転移が起こっており、そこにはやはり情緒が否認されているということなのかなと。だとすると、情緒が凍結していること自体をさらに情緒的に扱える可能性もでてきそうかなと思いました。

もう一ついうとそこでアドバイスをしたくなり、してしまったことについて分析的に理解することもまた精神分析的なセラピーになっていくのだろうと思います。


また「主体性」についてですが、セラピーをもつということは、セラピーの中でホールディングするということなのだろうと思いました。

たとえ、受け流しても、深まらせなくても、そこに関係を安定させるという。そして、このホールディングを維持する(セラピーを維持する)ことに治療者としての能動性や主体性があるのかもしれません。

セラピーをしていると、たまに現実的な要因でセラピーが危機に瀕することもありますが、それでもセラピーを維持し、継続することに意味があるし、そこに治療者としてのアクトも含まれるのだろうと思います。

流行の言葉で言えば、「生き残る」ということでしょうかね(^-^;A

こんなことを連想しました。

投稿: セーイチ | 2008/03/13 09:40

>nocteさん

>何か具体的に考えていることがあるでしょうか

やっぱり一番は、「治療構造(面接時間・場所)がしっかりしている」ということのように思います。ウチの職場、実はこれを確保することが案外難しいので、余計、そう思います。これが出来ている面接は、色々な意味でスムーズに進みますね。

あとこれは経験談ですが、「色々話してくれているのに、どうも上滑りで、今ひとつ言いたいことが伝わってこないなぁ(要は抵抗が強い)」と思った時、しばらく相手の話を聞いた後、「思いついたこと、何でも良いのでとにかく話してみてくださいね」と改めて仕切りなおしたら(要は介入したら)、それで一気に本筋が出てきて、面接がスムーズに流れたことがあります。

つまり「抵抗を如何に解くか」も大切と思います。

それからこれはこちら側のことですが、「相手の話しを聞きながら、常に自分の内面の動きを見る」ということが一番大切と思います。

イメージで言うと、「川(相手の話)が上層で流れているけれど、地下にもその川に並行して地下水(私の内面)が流れている」という感じです。そしてこの「並行」が如何に綺麗にできるかが、大切かと思います。

上手く伝わったでしょうか?

>セーイチさん

コメント(横やり?)、ありがとうございます(ちょっと情緒的に刺激されたので、反応しました)。

「どういう面接になっていくかが、こちら側の情緒の刺激によって決まる」という点ですが、これは特に面接の初期(要は治療契約を決めていく段階)で、ケースをどう見立てていくかという時に、「こちら側の情緒の刺激の有無」が結構、影響してくるように思います。

ただこれは、私の職場(職種)の特徴も大きく影響していると思います。
セーイチさんが働いているようなところや、セーイチさんのようなスタンス(精神分析的心理療法のみをしている?)とは、私の場合はちょっと違うので・・・(職種を書けばもう少しすっきりすると思うのですが、如何せんネットなので・・・。あれ?セーイチさん、私の職種、知らなかったっけ?)。

つまり私の場合、お会いしている人全てに「精神分析的な面接」のスタンスで会っていくような職場では無くて、純粋にアドバイスを必要としている人も沢山来ますので・・・。

だからたとえ主訴は同じような内容であっても、面接の進め方を決めていく際に、この「情緒の刺激の有無」で、「この人は具体的アドバイスで良いな」とか、「この人は関係性を見ていった方が良いな」という具合に、面接の進め方が決まっていくように思います。

それからこの「アドバイスをする」についてですが、アドバイスと言ってもその人その人によってアドバイスの内容が違ってくるでしょう?

で、ある時、「この人は私の中にある色々な知識の内、自分にとって必要な知識を、随分上手く私から引き出してくれるなぁ・・・」と感じることがありまして・・・。

それで「何故かしら?」と考えた時、広い意味で「これも逆転移に入るのかしら?」と思ったので、私が入れたコメント >いずれにせよ(以下、略) を書きました。

ちなみにこれは松木先生の書かれた「分析空間での出会い(人文書院)」の中の、「すべてが転移でないにしても私たちの面接のなかには転移のかけらが漂っており(p.139)」という文章を読んだ時、「アドバイスさえも、相手からの転移のかけらが影響しているのかしら?」と思ったことがきっかけで、考えるようになったことです。

まだこのことについて、自分の中にスッキリ結論が出ていないので、上手く言えませんが・・・。

それからセーイチさんはやはり「精神分析的心理療法」の人だなと、コメントを読んで思いました。

私の場合は「精神分析的」な「面接」ですね(違いは何?と言われそうですが・・・)。

投稿: まったりねこ | 2008/03/14 01:42

>nocteさん
確かに言われてみれば、「思ってもいない言葉が出る」という話とは少しズレて、幅の広い話になっていたと思いました。

ただ何というか、彼に対する僕の対応というものが、普段行っている僕のコミュニケーションの取り方と、少し違うという意味で、「思ってもいない言葉」というところに反応したのかと思います。


「主体性」についての質問ですが、「「受け流すように会話」することを受容している」というよりは、僕はそれを【選択】しているということが、主体性なのだと思います。

僕が彼とのやり取りを受け流す形で行っていることに対しては、先生から言われたので、仕方なくそうしている、という感じがしています。でもそれを僕が【選択】しているのは明らかで、それ以外に使える選択肢が無かったからそうしているということなのだと思います。

つまり、【それ以外の選択肢を消そうとしている】ところが、逆転移の部分なのかと思います。

だから、nocteさんの例でいくと、「私の中にはなく、その先生の中にはすでにあった(かもしれない)考えを私が思いついた」というのは、その先生が必死に選択肢を消していったところ、nocteさんがそこから見えてきたある考えを思いついた、となるのではないかと思いました。

その先生の中にある考えが【それ】自体としてあるとは僕には思えなくて、【それ】以外のものを排斥しようとする働きの中で、見えてきたのだと思いました。


何か話が広がり過ぎた気がしますが、僕はこんな風に考えました。あと主体性ということについてもエピソードが一つあるのですが、広がりすぎるのでこの辺にしておきます。

投稿: rhox2001 | 2008/03/14 12:18

こんばんは。

>まったりねこさん

そういえば、まったりねこさんはミクシとかでチラチラとお見かけしていましたが、実際にどういう人で、どういうスタンスで、どういう職場で、どういう仕事をしている人って実は知らなかったりします(笑)

勝手な思い込みで、構造化がしっかりした分析的セッティングでの話しかと思って、上のコメントを書いてしまいました(^-^;A

ちなみに、僕は主にクリニック内の自費での面接ばかりをしています。分析的なセッティングでケースをするのは半分以下で、半分以上はサポーティブなやり方とか指示的なことをしたりしています。

>主訴は同じような内容であっても、面接の進め方を決めていく際に、この「情緒の刺激の有無」で、「この人は具体的アドバイスで良いな」とか、「この人は関係性を見ていった方が良いな」という具合に、面接の進め方が決まっていくように思います。

そういえば、直接的な回答ではないんですけど、分析をする上では、患者のモチベーションと共に、治療者も「この人と分析することに意味がある」という感じがないとやはり治療は失敗するだろうと思います。これも逆転移といえばそうなのですが。面接初期でこちらの情緒が動かないという逆転移があり、その逆転移が患者の転移を受けてのものであったとしても、その逆転移を理解し、ある程度ワークスルーしないと分析には入れないでしょう。

>「思いついたこと、何でも良いのでとにかく話してみてくださいね」

分析の流れで一つ思いついたことを書きます。これは特に分析的なセッティングの中でのまったりねこさんの介入ではないかもしれませんが、これがもし仮に「分析的なセッティングであれば」という勝手な仮説を作って書きます。

確かにその通りでこれは抵抗を扱っているという風に言えると思います。ただ、僕が抵抗を扱う時には、そこに抵抗せざるを得ない何らかの情緒や葛藤があり、それを扱わないで「抵抗があります」とか「抵抗を解きなさい」というと外傷的に働いてしまうことが多いと思います。付け加えて言うと、そういう風に治療者がサディスティックになること自体にもまた治療者の逆転移があるのだろうとも思ったりします。繰り返しますが、この理解は「分析的なセッティングであれば」という仮定での話しなので、そうでなければ、この僕の理解は単なる言葉遊びになるだけだと思いますが(^^ゞ

こうして自分のコメントを振り返ってみると、「分析の人」と言われてもそうだよなって感じですかね(笑)。でも、「分析の人」と言われて嬉しがっている自分もいて、またそこが可愛らしい(爆)

投稿: セーイチ | 2008/03/14 22:31

>セーイチさん

ネットでの文字コミュニケーションはやっぱり難しいですね・・・。

>これは私の経験談ですが

の部分は、これもやはり「面接の初期」の出来事です。
「面接に続けて来るということ自体はOKそうだが(信頼関係は出来たようだが)、どうも相手が今ひとつつかみきれないなぁ・・・」と思っていたときに行った介入です。今一度ふり返ってみると、<何故、話せない?>という点からの介入というよりは、<大丈夫ですよ。安心して話してください>というメッセージが含まれていたと思います。

それとこれは「本格的な分析的なセッティングの中」でのことではありません。

それから私自身はどちらかというと面接の流れに沿っていくタイプなので、むやみに「抵抗を解く」ということは、おそらくやってはいないと思います(そういうことでSVに何か言われたことは記憶に無いので・・・)。

ただ、確かに上記のような書き方でコメントすると、「そうか、抵抗を解けばよいんだ!」と一般に誤解されますよね。
そういう点で、セーイチさん、丁寧な解説をありがとうございました。

やっぱりコメントは難しいですね。

投稿: | 2008/03/15 08:09

上のコメントは私です。名前、入れ忘れました。

投稿: まったりねこ | 2008/03/15 21:11

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