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2008/03/27

Peter Fonagyについて(3)

 このブログはなぜかずっと統計用語が検索の上位を占めていて、先日、多分初めて臨床に関連した言葉が検索の1位になった。それが「Fonagy」と「mentalization」だった。やっと臨床系のブログらしくなってきたのだろうかと思いながら、統計に困っている人も多いのだろうと考えたりしていた。だいたい検索に引っかかるのはかなり以前のエントリなのだと思うけれども。それはともかく、第3段。

 前回の続きに入る前に、前回のエントリではFonagyの研究の初期としてreflective functionを紹介したが、これはあくまで精神分析と愛着理論の接点としての初期の段階なのであって、それ以前からFonagyは活躍していたと思う。それよりさらに前の研究についてはあまり知らないのだけれども、時折Fonagyは攻撃性について述べていることがあって(これについては一度エントリをあげたことがある)、その辺の研究をしていた人なのかもしれない。

 さて、Fonagyの次の発展を理解する上で重要な文献は、多分「Affect regulation, mentalization and the development of the self」になるだろう。これはこのたび翻訳された「Psychotherapy for borderline personality disorder: Mentalization-Based Treatment」(前回のエントリでは情報がなかったように思ったのだが、どうやらこれがもとの著作のようです)の後に出版されたものであるが、MBTについて理解する上での理論的な基盤を固めたものであると言え、おそらくこれよりも以前から彼らが行ってきた臨床実践の足下を確かにする研究成果であると言える。そういった理由で、実践をより良く理解するにはこちらを先に取り上げたほうがいいのだろうと思う。
 この中でFonagyたちが注目しているのは、Gergely & Watsonの社会的バイオフィードバック理論であり、これが彼らの理論の実証的基盤を提供している(Gergelyはこの著作の著者にも名を連ねている)。
 例によってそれらを大ざっぱに説明すると以下の通りだ。

 乳幼児は生まれてすぐに外界を認識することができるが、その認識は自分の身体の動き、あるいは身体の動きによって引き起こされた変化、が中心である。しかし、生後3ヶ月以降になると、自分の身体の動きとよく一致はするがわずかにズレたもの、により注意を向けるようになる。つまり、それは母親(いつものごとくこの言葉は主要な養育者を代表する)の反応である、と彼らは言う。出生後すぐの乳幼児は自分の身体とそれによる外界の変化(そこにズレはない)に目を向けているが、この時期になると自分の運動に反応する母親(そこには大部分の一致とわずかなズレがある)の方に目を向けていると言うのだ。
 この時、母親が子どもの行動を心の水準で理解し応答していれば、子どもはそこに自分の心を見ることができる。もしも母親が子どもの行動を行動としてしか理解していなければ、子どもはそこに心を見いだすことができない。母親が子どもの心を読み取っても、それが「本当の」子どもの心と一致していなければ子どもはゆがんだ心の状態をそこに見いだすことになる。
 バイオフィードバックによって、私たちが普通なら知ることのない血圧を覚知できるようになるように、この母親の機能が乳幼児にとって自分の心を「フィードバック」するものとなり、心を心として知ることができるようになるというのが彼らの主張だ。

 この母親の機能は主に2つの役割を果たし、いずれも「自己」の誕生に寄与している。
 1つは情動制御を提供すること。乳幼児研究によれば乳児が悲しみや怒りの表情を表すと母親も表情と声色でもってその真似をするという。そうしながら母親は乳児をあやす。ここから何が言えるかと言うと、情動制御は乳児の中で行われるのではなく、母子関係の中で行われる、ということである。一者心理学ではなく二者心理学。自分で自分をコントロールすることをある年齢になると求められるけど、それがうまくできるには、まず始めに誰かにうまくコントロールしてもらうことを経験していなければならない。
 そうした情動制御が自分の情緒の表出によって引き出されることに気付き始め、ここに母親から情動制御を引きだせる乳児の「主体的な自己(agentive self)」が誕生する。この自己はやがて母親が果たす情動制御を自分で引き受けていくことを可能にする。
 もう1つは表象の形成に与ること。母親が乳児の情緒の手がかりとなる表情を真似ることで、乳児は自分の心的状態を母親の上に(あるいは中に?)認識することが可能になる。自分の内的状態を自分の内側に感じるのではなく、乳児はそれを母親に感じ、それを通じて今自分の身体の中で起きていることと、目に映る母親が示す表情、耳に聞こえる母親の口にする声色とを対応させて、内的状態が一体何かを理解する。内的状態は、母親の表情や声色という二次的な表象を通じて認識される。ここに「表象としての自己」が生まれる。
 このことは表象の誕生にはズレが必要であることを強調する。表象や象徴の誕生には表象するものとされるものとがよく一致していること、なおかつそれらが別であることが必要である。もしも内的状態、その表出としての行動がそのまま外界に反映されれば、乳児は自他の区別をつけることができない。Fonagyらはこれを「心的等価(psychic equation)」と呼ぶが、それはまた後で。

 自分を知るということは自分一人で振り返ってできることではなく、それを読み取る他者がいて初めて可能になるものである。そう彼らは言い、この2つが安全な愛着関係の中で起きていることであり(ここで愛着の安全性が強調される)、また心理療法の中で起きてることであるとおそらく考えている。もちろんこれはWinnicottのmirroring、Bionのreverieやalpha function、などの概念と類似の発想であるが、それを乳幼児研究から出発させているところになによりの意義がある。

 ところでこれが安全な愛着関係で起きているということには重要な意味がある。
 母親のこうしたmirroringは同時に2つのことを達成している。1つは言うまでもなく乳児の示す情緒を適切に捉えてそれを乳児に返すことである。しかしもし悲しみや怒りの表情を示した乳児が母親からその情緒を返されたらどうなるだろう、ということを考えた時に、母親が同じように悲しみ、あるいは怒っているわけにはいかないことは容易に想像できる。そして実際に世の中の母親はそうして乳児の状態と同じ状態になったりはしない。そこには慰めが提供され、あるいは情緒に圧倒されない安全の感覚が備わっている。これが母親のmirroringで行われている2つめのことである、とFonagyらは言う。
 母親は乳児の情緒を適切に、そして安全に映し返す。これを彼らは情緒のmirroringの「指標性(markedness)」と呼んで、1つの重要な要素として注目している。古くは共感と同情の違いとして論じられてきたような、文脈は違うかもしれないがRodgersが「あたかも〜のような、それでいて…であることを失わない」といったようなことで言ってきたようなこととよく一致する、おそらく同じ種類の主張である。同じでありながら、同じでないことが達成される時に、つまり悲しみや怒りとともに安全や落ち着きや慰めや時に笑いが伴う時に、情緒を指し示す要素が含まれながら、それと拮抗するような安全感がある時に、乳児は自らの情緒を安全に体験することができる。それが指標性ということである。その最も典型的な形は情緒を大げさに真似して見せることである。
 Fonagyらはこのようにして、母親による社会的フィードバック、あるいはmirroringは安全な愛着関係の中で生じるのだという。
 精神分析的な心理療法家たちが情緒に注目する意義も、おそらく潜在的にはここにある。情緒を理解し、それを抱えること、ないしはコンテインすることが、自己の理解と主体としての自己の達成を可能にするのである。
 彼らはここで、「自己」というものがこのように母子関係の中で発達的に「達成」されるものであり、それが始めから存在しているわけではないことを強調する。それはヨーロッパにおいて以前主流であるデカルト流の哲学に抗う主張であり、このあたりはおそらくKlein派の発想とも異なるところである。おそらくこのあたりの違いから、例えば投映同一化概念を原初的な自己の想定なしに、むしろ自己の発達の障害の1つとして記述する必要が出てきて、「異物的自己(alien self)」や「外在化(externalization)」の概念を生み出していったのかもしれない、と書いていて思ったけれども、その話しはまた後で。
 
 かなり大ざっぱではあるものの、これがFonagyらの理論の中核的部分であり、また健康な発達について論じているところである。もちろん社会的フィードバックやmirroring、指標性、に内在している、「よく一致していることと同じでないこと」のバランスが崩れた時には、乳児の情動制御、および自己の発達、そして内省機能ないしは心理化能力の発達もバランスを失う。議論はそうして病理的な発達へと向かっていく。

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コメント

なんか僕みたいな学部生ごときがコメント残すことに段々と罪悪感を感じてきたのですが…精神分析というのは「失われた子供時代を取り戻すこと」というのをどこかの本で読んだのですが(精神分析入門だったかな)、やっぱりその辺(乳幼児期とか)での養育者との関係が大事だったりするのですね。

あと精神分析というのは「その人の中の親を育てること」というのをどこかで読んだ記憶があります(これも精神分析入門だったかな)。なんとなく、その辺を念頭にこの記事を読んでました。中身については「そうなんだ」ぐらいの意見しか持ち合わせて無いのですが…何となく興味があるのでついコメントしてしまうわけで、そんな感じで失礼します。

投稿: rhox2001 | 2008/03/29 13:09

はじめまして,sakuraです。
アナリストになりたいのか,サイコロジストとして成長していきたいのか,と悩んでいる臨床10年目の臨床心理士です。
どうぞよろしくお願いします。

Fonagy来日とか,メンタリゼーションとか,最近よく耳にするので,関心を持って記事を読ませていただきました。
すぐには理解が追い付かないので,再度じっくり読みたいと思います。
感想としては,クライン派との相違について述べられており,大変興味深かったです。
乳幼児観察を訓練の一つとして行っているタヴィストックでBowlbyが働いていたことが,愛着理論の背景にあると私の中では整理されています。
クライン派も,母子関係の中で自己が形成されていくと考えていますが,より緻密な研究が愛着理論の中で展開されているのかなと記事を読んで思いました。
自分でも調べてみたいと思います。

>例えば投映同一化概念を原初的な自己の想定なしに、むしろ自己の発達の障害の1つとして記述する必要が出てきて、「異物的自己(alien self)」や「外在化(externalization)」の概念を生み出していったのかもしれない、と書いていて思ったけれども、その話しはまた後で。

今後の展開を楽しみしています。

投稿: sakura | 2008/04/01 09:33

>rhox2001さん


 幼少期の重視というのはフロイト以来の精神分析の基本的な観点です。治療のイメージはなかなか一言では言えませんが、心の中に残された幼少期的な自分を育てるか、もしくはそうした自分を抱えて生きていけるようになること、と表現できるのではないかと思っています。

>sakuraさん

 はじめまして。タヴィストックにおける乳幼児観察とBowlbyとの関係は分かりませんが、BowlbyはもともとKleinのもとにいた人で、Klein派の無意識的空想の重視に対し、現実の母親との関係を重視して対立していった人です。精神分析を科学として、観察可能な行動に基盤をおいて研究を進め、その伝統のもとにおそらくFonagyの研究も成り立っています。
 ですので、より緻密というよりは、より実証的、という表現の方が適切ではないかと思います。緻密さで言えば、Kleinやその後のBionの考証もかなりの程度緻密であるだろうと思うからです。

 現在、精神分析における発見と脳神経科学との照合が新しい領域として立ち上がっていて、ある意味それがFreudのもっとも目指したことであっただろうと思いますので、このFonagyのような人物の出現は精神分析における必然だろうと、個人的には考えています。

投稿: nocte | 2008/04/06 01:44

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