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2008/01/30

egword、egbridgeパッケージソフト事業終了に寄せて

 このカテゴリーをきちんと使うのは初めてかもしれません。

 Macのインプットメソッド、もしくは日本語入力システムは標準で「ことえり」と呼ばれるものが付いてきます。Windowsで言えば「IME」と呼ばれるものと同等のもので、これらはOSに標準で付いてくる日本語入力システムです。キーボードで打ったローマ字やかな入力を解析し、漢字や送り仮名に変換することがその基本的な機能です。今でこそその精度は上がりましたが、少し前までは変換効率が悪く、文章を書くのに難儀することが多々ありました。そうした状況で日本語を使うことを支援してきたプログラムがサード・パーティの製品です。WindowsやMacで使われている「ATOK」はその1つだと言えます。
 また、国産のPCがなくなった現在では、あるいはそうしたPCがあった過去においても、日本語の文章を取り扱うことは大変な苦労を要するものでした。日本語の文字数がヨーロッパの言語に比べて格段に多いこと、横書きに加えて縦書きがあり、禁則があり、一言で言えば言葉をめぐる文化が全く異質であったことによる苦労です。ワープロソフトと呼ばれる種類のソフトウェアが数多く発売されてきましたが、日本語をきちんと取り扱えるものはやはり国産のソフトウェアでした。ATOKを出しているジャストシステムの「一太郎」がそうしたソフトウェアの1つです。

 Macにおいては、その歴史の始まりから1つの会社が、このパソコン上で日本語を使うという課題に対し大きな貢献をしてきました。エルゴソフトという名のその会社は「EGWord」、および「EGBridge」というワープロソフト、および日本語入力システムによって私たちに快適な日本語環境をApple社そのものに先駆けて提供してくれていました。一時は経営が困難となり、その存続が危ぶまれたものの、「信長の野望」「三國無双」などのゲームソフトで知られるコーエーという会社の子会社となることでOS 9からOS Xへの移行、PPCからIntelへの移行を果たし、製品名を「egword」「egbridge」と変えながら美しい日本語を扱うことを可能にしてきました。その美しさは文字や言葉に関する感受性や感性に支えられたものであり、レイアウト、字詰め、禁則処理、原稿用紙モードといった機能の中に実装されていました。

 しかし、この28日を持って、エルゴソフト両製品の24年にわたる歴史が終わりました。

 言葉は心を映し出す具体物でありながら、かつ抽象的な概念でも存在でもあり、人間が手に入れた能力の中でも特に人が人としての心を持つ上では欠くことのできない能力の1つです。言葉が心的世界の構造を表象することはすでに多くの言語学者や哲学者が述べてきたことであり、言葉が思考や心の働きを可能にすることは分野を問わず多くの研究者が口をそろえて述べるところです。その重要性は現代の心理臨床においても変わることはありません。フロイトが夢の解釈を言葉を分解することで行っていったことも、ラカン達がその思想を追求したことも、神田橋條治が言葉は構造を持っていると述べたことも、日本語臨床の研究者達が日本語の1文字や1音にこだわりながら研究会を続けているのも、その重要性を確信しているからに他なりません。
 とりわけ精神分析は言葉を用いて行われます。私たちはクライエントの使った言葉の意味をクライエントが理解しているように理解しようと努め、セッションの間その言葉をクライエントが語ったまま記憶にとどめ、必要に応じてそれを再生し、以てクライエントの内的世界を共有しながら心的作業を行うよう努めています。

 言葉とは文化であり、それは社会の水準においても、個人の水準においてもそうなのだと私は思っています。私たちは微細な言葉の揺れの狭間に、個人の心を、私と彼や彼女の内的文化の差異を見て取るのです。

 それは例えば心理学において取り組まなければならない英語の理解においても関わりのある事柄です。この仕事をしていると英語の文献に当たることも多く、また英語を翻訳する仕事に携わることもあります。そうしたとき、私はできるだけその概念や用語を日本語に直すことを試みます。それが日本語にならない言葉なら、日本にはない概念や現象なのではないかと思うからです。少なくともそこには視点の違いがあります。そうした違いに敏感であるために、私は自分が使う用語が日本語であることにこだわってきました。翻ってカタカナ表記の言葉をあまり信用しないところがあり、セッションやクライエントという言葉を自分で使いながら、はたしてそれがどの程度日本語なのか、どの程度日本人の営みなのかについて考えたりするわけです。
 その試みがはたして適切であるかを自分に問いながら、行けるところまではこのやり方でいってみようと考えているわけです。

 エルゴソフトが開発してきたそれらの製品は、この日本語をきちんと取り扱うということを大切にして設計されたものでした。2万字を越えるヒラギノを扱えること、複雑なレイアウト作業なしに日本語に適した字詰めを実現すること、縦書き、原稿用紙、そして動作の軽さといった日本語を日本語として扱うための機能の実現に常に真摯に取り組んでくれていました。それは日本語が他のどの言語でもなく日本語であることを意識し続けたい私にとって、他に換え難い製品であったのです。例え私がまだ日本語を、その歴史を踏まえて上手に使うことができていないとしてもです。

 言葉はその担い手がいなくなれば死に絶えます。言葉に関する感性も同様です。字面だけが生き残っても、シニフィエのないところで、言葉は意味を持ちません。逆にシニフィアンのないところに意味は現実との接触を持ちえません。言葉はその受け皿を必要としているのです。

 その意味でegwordとegbridgeが消え去るということは1つの文化の終焉を意味します。終演であればまだ良かっただろうにと言葉遊びをしている場合ではないのです。

 両製品の開発からの撤退は、今使えているソフトウェアがすぐに使えなくなることを意味するわけではありません。ライセンスが切れるわけでもないことはエルゴソフトも保証しています。しかし、例え今後1年間を持ちこたえることができても、OSのバージョンが上がることでこれまでのように両製品を使うことができなくなる可能性は決して低くありません。これらの製品はOSの機能に深く依存することでムダを省き、使い心地をよくしてきたために、OSの変化に対して脆弱だからです。いつかはその機能を本当に停止するときが来るのです。

 おそらくその時、私の文章を書くという行為には何らかの変化が訪れるでしょう。それがどのような変化なのかは分かりません。文章を書くという作業をやめるわけにもいきませんので、何か別の選択肢を探すかもしれません。Wordという選択肢は避けたいものであるとしても、その時にどのような選択肢があるかも予測はできません。しかし、いずれにしても私の文章はその色合いや手触りを変えていくでしょう。言葉を使うということは私にとって(そして本当は誰にとっても)それほど繊細な作業なのだと思っています。
 私の文章の色合いが変わることが誰かにとって何かの意味を持つことがあるかどうか、それは私には分かりません。誰かにとって何かの意味を持つかどうかと問うことにどれくらいの意味があるかさえも私には分からないのです。ただ、私の文章は私の一部なのです。それが失われることは喪失であり、また変化なのです。egwordとegbridgeという環境を失うことは、そうした喪失をもたらすことであり、これまでに蓄積されてきた私の経験(を記したファイル)を失うことでもあります。
 そのことだけは確かなことで、だからただ、悲しいのです。

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