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2007/12/11

倫理について

 今年度の後期は、学部生の倫理の講義を担当している。正直学部生に臨床心理学における倫理について講義することがどれくらいの意味があるのか分からないけれども、カリキュラム上そういうものがあって、カリキュラム上私が担当することになっているのならば仕方ない。倫理については前から1つだけ思っていることがあるのでそれに沿って話をしようかと思っている(このエントリを書いてそれは止めることにした)。

 倫理的な問題とはどのようなものかということは、時代的な文脈や文化的な文脈で語られる必要がある。だから一昔前の常識はおそらく今では通用しないし、例えばこんな言い方が許されるとすれば、事例研究は少し前よりもずっと「やりにくく」なっているだろう。倫理的な問題の中核的な概念はそれこそヒポクラテスの誓いから一貫して示されてきたとしても、それが現実のものとなった時の基準は案外曖昧なところがあって、例えばスクールカウンセラーが持つ守秘義務は個人単位ではなく学校単位(というか職員室ぐらい)にその境界が広げられていたりする。いじめられていることを言わないで欲しいという児童・生徒がいたとして、それを教師に伝えることが倫理的なのか、秘密を守ることが倫理的なのか、その相談をクリニックで受けたとしたらどうなのか、そんなふうに倫理の現実的な基準は場と状況の間で揺れ動いている。

 その点において倫理の問題は1つの困難を有している。

 けれども問題はそれだけではない。
 上のようないじめの相談を受けた場合に、私たちがその「秘密」を誰かに語るか語らないかの判断は倫理的な基準だけによるわけではなく、それはもっと、例えば心をどう取り扱うかということとも関わっている。誰かにそれを知られたくないという本人の心とそれによって予想される結果とをどうやって取り扱っていくかということが私たちには求められる。守秘義務の境界が職員室に広げられているとして、それに本人は納得できるのか。納得できないからといって事態をそのままにしておくことがスクール・カウンセラーの仕事なのか。そうした状況に私たちは直面させられることになる。
 そこにこの問題のもう1つの困難がある。
 倫理的な問題の困難は、何が倫理的な問題なのかという基準の問題にだけあるのではなく、むしろ人を傷つけないようにというまさしくその倫理が心をどう取り扱うかという同じ種類の臨床的作業と対立する、そのことにあるのではないかと思うのだ。

 そんなことを考えていると、そうは言っても倫理におけるこうした困難とは私たちが日々経験している臨床的な困難とパラレルなのではないかとも思ったりする。いじめられている秘密を語るべきか語らないべきか、そうして突きつけられた二律背反を前にして、この二律背反こそが事態の本体なのだと気付く時、私たちは第3の選択肢を見いだすことになる(理想的には)。生きるべきか、死ぬべきか、その答えはどちらにもない。
 2つに引き裂かれた事態の中で折り合いをつけ、立ち回る第3のポジションにあることが心理臨床の本質であり、内的世界と外的現実との橋渡しの作業であり、そう考える時、この倫理的な問題というものは実のところ1つの独立した事象に属するものではなく、日々の臨床において起きている日々の事象の1部としてすでに私たちが取り扱っているものなのではないかと思ったりする。
 倫理的要請と心を取り扱うことの必要性のこうした葛藤に私たちが置かれるそのことは、例えば「自分のことを考えるときついから考えたくない」という人に、<どうしてそう思うのでしょう>と尋ねることが心理療法的なのか、<それでは別の方法を考えましょう>ということが心理療法的なのか、そうした葛藤と並行であるように思う。そこでどう振る舞うかを私たちが試されることになる、そうした種類の作業のことだ。
 心理臨床における倫理、あるいは臨床心理学における倫理ということが言われるようになった時、私にはちょっとした違和感があったのだけれども、それはこのことと関係しているように思う。私たちは人を傷つけようと思って臨床には取り組んではいないし、それでも人を傷つけることが起きてしまう。その困難をずっと私たちは取り扱ってきたはずで、つまり倫理的な問題はずっと日々の臨床に横たわっていて、私たちはこれを倫理的な面だけで語ることはできないと知っているのではないかと思ったりするのだ。

 もちろんその前提として倫理的な基準が、今の時代のこの文化の中でどこにあるかを知っておくことは必要だろう。どんなことをするとどんな倫理的な問題に抵触するのか、どんなことをするとどんなふうに人を傷つけていくのか、そうしたことがこの話の前提ではある。法律は私たちに何を要請しているのか、過去の事件や事例は私たちに何を教えてくれているのか、そうしたことを知っておくことは必要なことだと思う。それが揺れ動く倫理の基準という1つ目の困難を解決する手段にもなるだろう。多分、学部生に紹介する倫理の話とはこのことではないかと思っている。

 それでも、そのことを踏まえた上でなお、私たちはなぜ過ちを犯すのか、ということを問わなければならないと私は思っている。何が倫理的な要請の境界であり、基準なのか、それは知的に行うことのできる作業だけれども、それを踏まえて私たちが立てなければならない問いは、私たちはどうやって倫理的でない側に転がり落ちてしまうのか、という問いではないかと思うのだ。それは情緒的な問題であり、対人的な圧力の問題であり、2つに引き裂かれた思いやりの葛藤であり、そう言ってよければ思いやりの病理である。
 もっと悪い場合にはそこに私たちの欲望や願望が重なる。それは例えば名誉欲であったり、独占欲であったり、性欲であったり、怠惰さであったりする、そうした臨床家の側の心の働きだ。それを不誠実なことであると言い切ることは簡単で、それに持ちこたえることは難しい。私たちが倫理について考える際に考えなければいけないのは、そうした情緒的問題の取り扱い方なのではないかと思ったりする。

 そんなことを考えながら講義のレジュメを作ろうとしている。もちろん学部生にこんな話はしないけれども。

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