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2007/09/12

臨床心理士になるということ

 私もあまり人のことは言えないところもあるのだけれども、大学院の入試を通して思うことがある。それは臨床心理士になろうとする人たちがどうやって人の役に立つのかのイメージがあまり明確でないことだ。もちろん大学を出たばかりの人なんかが本などで読んで分かるほどに現実というのは分かりやすいものではないけれども、それにしても気になることがある。

 一番気になるのは、進学の動機について聞かれた際に、昔自分もいろいろとつらい目に遭ったのでそうした人たちの役に立てるのではないか、ということを院試の面接で語ることだ。あまりこうした批判めいたことを言うのは得意ではないのだけれども、それでもこうした点はほとんど何のアピールにもならないことを記しておきたいと思ったりする。

 臨床心理士として働いていくためにはつらい目に遭っている人たちの助けとなることが必要であって、確かに過去につらい目に遭ったという経験はその役に立ちそうに思える。けれども、実際には必ずしも自身がつらい目に遭っている必要はないだろうと私は思う。別に根拠はないのだけれども。もちろん面接でそうした過去を語ってはいけないということはないのだけれども、そこから何を学び、どう人の役に立てるのかということについてどれくらい考えているのか、といったことの方が重要なのだと思うのだ。

 私たちは日常の生活で様々な葛藤を経験し、苦痛を経験し、また喜びや興奮や幸せな瞬間を経験する。そうした経験はどんな人にも程度の差こそあれ訪れていて、そのことそのものは特別なことではない。むしろその経験をどのように他者にも適用しうるものとして、あるいはその限界を見定めて生かすことが出来るか、ということがこの仕事をする上では大切なのだろうと思う。ロテ職人さんが言うように、そのための1つの方法が研究によって培われるものの見方、捉え方なのだろうし、それが研究だけによって養われるとは思わないけれども、それでも自分の経験から距離を置いて俯瞰することの出来る姿勢は重要なものだと思っている。
 私たちが面接で知りたいことの1つはそうした姿勢、ないしは態度がどの程度内在化されているかということなのだ。

 むしろ自身のつらい過去を語ることは、その経験を昇華、ないしは消化できていないこととして捉えられる危険もある。これも別に根拠はないことなのだけれども、それでも経験的に私たちはそう判断する。そうした危険性を分かった上で話す分には構わないのだが、果たしてどれだけの人がそうしたことを分かって面接を受けているのだろうかと人事ながら心配になる。

 少し前のロテ職人さんのエントリでも話題になっているが、この領域に進んでくる人の中には打たれ弱い人が結構いると思う。実際に打たれた時の反応は人によって様々ではあるし、それに対してそうした院生を育てる人たちが何をなすべきかは別の議論になるけれども、それでもこの集団全体の傾向としては打たれ強くはないだろうと思う。それは心理臨床学会などに行ってみてもよく分かる。例えば、指導教員が院生の発表をかばうというのはどうかと思うことがしばしばあったりする。院生にはその程度の打たれ強さは持っていて欲しいと思うし、なにせ学会で発表をしているわけだし、それ以上にそれはその指導教員自身が批判に耐えられないのではないかと思ったりすることもある(そもそも学会の場でのディスカッションに批判という言葉がふさわしいかも疑問だし、思わずそうした言葉を使いたくなるようなものを喚起させる振る舞いが見られるのもどうかと思うわけだけど)。
 私もまたあまり人のことは言えないが、と断った上で書くけれども、もちろんこうした点にも長所はある。どんな物事にも良いところくらいある。その「ナイーブさ」は、ナイーブである人たちと出会っていく際に、あるいはそうした人たちの問題を取り扱っていく際に、知的な理解では追いつかない理解を可能にするだろうと思うのだ。例えばそれは感受性と言われていたり、情動調律と呼ばれるものであったり、共感であったり、直感であったりするものだろう。人の持つ孤独感や寂しさや迫害感や恐怖感やそういった情緒の絢を敏感に感じられるということはそれだけで大きな資質だろうとは思う。その点については自身の過去を誰かのために生かせるのでは、と語る人たちの言うところに私も賛同する。
 それでもそれだけではこの仕事は出来ないとも思っている。いろいろとつらい目に遭った経験がつらい目に遭っている人への共感的接近を可能にしているとしても、私たちの仕事はそうしたつらい目に遭っている人の世界と、その人のすぐ傍にある、例えばもっと粗雑で乱暴で厳しくて冷たくて経済的で結果を求められて頑張ることが良いことであるような現実との間を橋渡しすることにあると思うからだ。私たちの片足はそうした現実に置かれていなければいけないわけだ。私たちがいくらかその身を現実の側に置くことで相手をつらい目に遭わせることもあれば、私たちが厳しいことを口にしなければいけないこともあり、それによって相手から裏切り者と思われたりすることだってあるだろう。それでも私たちは現実の側に片足を置いておかなければならず、そうした現実的であることに圧倒されずに、同時に相手の弱い(と言えるような)内的世界に触れ続けることが求められる。それが私たちの仕事だろうと思うのだ。心を大事にするということは、心だけを大事にするということとは違う。心が現実の中に居場所を見つけるということであるし、それは現実を心に合わせるということではない。
 そうして内的世界と現実とを橋渡しするところに私たちが立った時、自分の傷つきだけを口にするようなことは私たちには出来なくなるのだろう。というあたりのことが、多分、私たちが面接で自分の過去を語る人々への評価を下げることの基底にあると思う。繰り返すけれども、これは経験的なものなので、全ての人がそうではないのかも知れない。でも人の弱さが分かるだけではこの仕事は出来ないのだ。まして打たれ弱いままでは内と外とを取り持つことなど出来ないのだ(打たれ弱さとはそういうものだろうと思う)。

 大学院を受けようと思う人には、そのあたりのことをもうちょっと分かってもらいたいと思う。それをどのような形で超えていくかの答えは私には分からない。例えばクライン派と中間学派でもそれは違うわけで、異なる理解の方法は異なる解決の方法を見いだしている。誰かの言葉ではなく、自分の言葉として(ここでの「言葉」はレトリックだけれども)それを探せるかどうかというところで、すでに試験は始まっているとも言えるのかもしれない。

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