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2007/08/06

科学・臨床・関係

 前回のエントリをあげてから2週間以上が過ぎてしまったけれども、それからまた考えたことがあって続けてエントリをあげることにした。前回のエントリであげたことにpsy-pubさんからコメントをいただいた。このエントリはそこから考えたことだ(お返事が遅くなりました>psy-pubさん)。ちょっとまとまりが悪い気もするけれど。

 そのコメントは次の部分。

>したがって自分の心が基礎系の研究によって十分に理解されたと感じられないという権利はいくらでもある。(中略)もしかしたら基礎系の人にもそう感じている人がいるかもしれない。
ここですよね。僕のイメージだと,基礎系の人はそういう無力感がより強いのではと思います。だから叩かずにはおれないというか。防衛的ですね。あるいは磐石でないがゆえの非寛容のような気も。事実,基礎系の心理学は周辺分野に吸収されていってる印象です。

 確かに防衛的に臨床系を攻撃する基礎系という姿もあるのかもしれないし、ほとんどイメージだけで臨床系に攻撃的になる基礎系の人もいるだろうと思う。その一方で彼らが言うことが的外れなことばかりではなく、実際に臨床系の急所を突いていることもしばしばある。心理学外からの批判もないことはないにしても、彼らは科学者であろうとしている。他方、臨床系の研究者は必ずしも科学であることを標榜しない。臨床家は時に科学的であることの弊害を口にすることさえある。それを防衛的な攻撃といえば言えないこともないだろう(psy-pubさんもむやみに臨床系の肩を持って発言したわけではないと私は思っている)。

 こうした批判の応酬、ないしはすれ違いはどこからくるのだろう?

 前回も書いたことだけれども私たちはともに方法論を異にする集団に所属しているのではないかと私は思う。基礎系の心理学において研究者と対象とは分離している。対象は対象であり、研究者は観察者である。その間に自己関与はない。関与すら差し控えられる。
 しかしここでそれ以上に私が強調したいのは、基礎系の研究者はその活動において「科学」と呼ばれるものに準拠して活動しているということだ。それは例えば西洋の社会において自己と他者との関係が「神」の定めによって規定されることと似ている。レトリカルではあるけれども、それを端的に表現すれば、科学とは神であり、基礎系の心理学が標榜してやまないそれは対象−自己−科学という3者関係にあると言える。
 その対比は臨床系を自己−対象の2者関係にあるものと捉えるとよく分かる。臨床家が対象であるところの他者を理解し、その心の働きや状態や変化を記述するのは、基本的にはこの2者関係においてなのだ。その中で正しいことは正しいこととして理論化され、その中で不適切であったことは理論化の素材からは外されていく。何が正しく何が不適切かを決める基準は2人の間で決められる。
 これに対して基礎系の心理学では何をどう捉えるか、どのような理解が適切で、どのような要素がそれと関連するかについての判断は自己と対象との間にはない。その基準は第3者に対して開かれており、科学という第3項に照らし合わさせて判断が下される。
 ここには基礎系の研究者による科学への敬意がある。基礎系の人々は科学を用い、同時に科学に奉仕する。外部の第3者もまたそれを通じてある研究者の主張を共有することが出来る。

 それが基礎系の人々が臨床系の人々を批判することの背景をなすものの1つではないかと思う。

 基礎系の人々にとって臨床系の人々が持ち出す理解は、それが第3者であるところの自分たちから見てわけの分からないものとなる。そこには照らし合わされる外的な基準がなく、したがって外部の自分たちが持ち込める判断の基準がない。「それはどういうことだ?」と彼らは言うのだ。
 これに対して臨床系の人々は、その2者関係を外から理解することができる。その理解に従って、別の臨床家が述べていることを批判したり賛同したりすることが出来る。
 なぜそれが可能なのか?
 理由はそう難しくはない。臨床家であればその2者関係を経験したことがあるからだ。臨床家は自らの経験に基づいて事を語るが、それはまた他の臨床家によっても類似した経験がなされているために、2者関係を2者関係のまま伝達することが可能となるのだ。いつでもそうだとは言わないにしても、その許容範囲は基礎系の人々に対してよりははるかに大きい。第3者としての科学的方法ないしはその基準を必要としないのだ。時に。

 この点において臨床心理学は新しい学問の形を備えていると私は繰り返す。

 もちろん2者関係を2者関係のまま伝達することはある程度の曖昧さを含み、それが問題にならない範囲で許されることだと思う。そしてそれが許されないにもかかわらず行われている研究を私も目にすることがある。しかしだからといって、科学がそれを克服するかというと必ずしもそうではないだろう。
 それは例えば恋人の会話に例えられる。恋人の間で交わされる言葉は、第3者から見れば馬鹿げていたり、恥ずかしいものであったり、聞くに堪えないものになりうる。駅で別れる2人は第3者にとってそれほど悲痛なものでもない。けれども2人の世界とはそういうものだ。それが恋人同士の関係なのであって、恋人同士の間で起きることは第3者に開かれている必要はない。自分と恋人との関係を誰かに伝えるときに参照すべき外部の基準もない(余談になるけれどもDVや虐待への対応の難しさもそこにある。外部の基準ではその関係の内側で起きていることを適切には捉えられない)。恋愛を描くのは科学ではなく、絵画であり、小説であり、映画であり、そして音楽である。
 関係とはまず何より体験されるべきものである。そこにある種の臨床家が科学の弊害を訴える根拠が生まれるのだろう。第3者に開かれた関係はすでに2者関係ではなくなる。対象との関係が外的な基準に照らし合わされた瞬間に、その関係は間接的なものとなってしまう。別の側面に目を向ければ、私たちは科学に目を向けるあまり目の前にいる対象(object)を物体(object)としてしか見ない危険を冒すこともありうる。

 科学は独断や思い込みといった2者関係のゆがみを是正する方法論でありながら、体験や直接性といった価値を奪い取るものでもありうる。関係を記述するものでありながら、記述する行為は主体を関係の外に置く。
 科学の進歩は私たちの生活に大きな恩恵をもたらした。しかし、私たちはだからといって科学によって生きているのだろうか?人々の営みが科学でないときに、それに寄り添う臨床心理学は科学でなければいけないと言うべきなのだろうか。人間はどの程度科学的な存在なのか、と私が言うことの一部はこうしたことを指している(のです>psy-pubさん。とはいえ、自分で使っているこの表現がどこから来てどこへ行こうとしているのかよく分かっていないのですが)。
 臨床心理学の方法論の新しさは、科学によって開かれた関係において失われた親密さを取り戻すためにあるのではないかと思う。それは親密さではなく体験と言ってもいいのかもしれない。

 しかしこのことをもって私たちが「神は死んだ」と言えるかというと、おそらくそうでもないだろう。

 私たちが生きる世界の多くは3者関係で成り立っていて、むしろごく限られた領域においてのみ私たちは2者関係であることが出来る。そうした体験を持てる相手を親密な他者と呼び、そうした体験を持てることを私たちがありがたく思うのはそれが得難いことであるからだ。臨床系の人々は例えそれが貴重な体験であるとしても、2者関係の論理を振りかざしすぎるべきではない。駅のホームは恋人のためだけにあるわけではないからだ。
 私たちは基本的には3者関係を生きている。臨床の場で経験したことに基づきながら、それを他者に伝える必要があるのであって、研究というのはそういうもので、知の蓄積というのもそういうものだ。言外に含まれるものがあることを心に留めながら、それでも2者関係を共有できない第3者にも言葉を向けるのだ。それによって体験され、理解され、得られた知識が広く共有されていくことになる。2者関係から出てこれないことは、もしかしたら2者関係にすらなっていない病理の現れであるかもしれない。独断や思い込みやそういった危険を回避するために、第3者を意識する努力が必要であるのは間違いではないだろう。

 2者関係と3者関係の往復に耐えられること、実際のところ私たちに求められるのはそれなのだろうと私は考えている。

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コメント

コメント取り上げてくださってありがとうございます。

考えれば考えるほどコメントしづらくなってしまうので,もうあきらめて,書いてみます。妄言,ご容赦ください。

まず,こちらの

>基礎系の人はそういう無力感がより強いのではと思います

の意味するところですが,

投稿: psy-pub | 2007/08/13 13:56

失礼しましたorz間違えて送信してしまいました。

>基礎系の人はそういう無力感がより強いのではと思います

これ,やっぱりそうだろうと思うのです。というのは,科学的であるということを徹底しようと思うとき,ぶち当たらざるを得ない壁,すなわち,問題の設定の仕方が科学的でない,ということです。それはたとえば,構造主義生物学よりも分子生物学が生物学の本流であることと同一です(文系的には構造主義生物学のほうが面白そうですが)。

そう考えると,生物学や脳・神経科学に比べると,科学的ではない(科学的でないのが良い悪いではなく)ですから,自然,「科学的な心理学者」の活躍するフィールドが,そちらのほうによっていくことになり,心理学としてのアイデンティティを以前ほどには保ちにくい,あるいは保つことに執着しない,という現象が起きているように思われます(ただそれでも,行動や認知というコンセプトで理解することの意味は依然あると思いますが)。

私の言いたいのは,基礎系も臨床系の程度の違いこそあれ,根本的な矛盾をもっているものであり,実はその矛盾こそが心理学のアイデンティティであったのかとも思うのですが,科学という呪縛により縛られて苦しんでいるのは,むしろ基礎系なのかと思うからです。なぜなら臨床系であれば,言葉は悪いですが「治ればなんでもいい」という逃げ道がありますが,基礎系にはそういう逃げ道はないからです。

ということを踏まえたうえで,nocteさんの書かれた

>人々の営みが科学でないときに、それに寄り添う臨床心理学は科学でなければいけないと言うべきなのだろうか

というのや

>私たちが生きる世界の多くは3者関係で成り立っていて、むしろごく限られた領域においてのみ私たちは2者関係であることが出来る。

というのは,量子力学や非線形科学とかのコンセプトに近いものがあるのかなという気がしました。すなわち「対象をあますことなく記述しうるのか(たぶん無理)」ということかと妄想しつつ(違っていたらスミマセン),

>それを他者に伝える必要があるのであって

丸ごと記述したものを伝える必要があるか,というのもひとつの論点になるのかもしれないな,とも思います。どちらが良い悪いではなく。

そして,

>2者関係と3者関係の往復に耐えられること、実際のところ私たちに求められるのはそれなのだろうと私は考えている

なんとなく僕が「臨床の手触りがする」と思うような文章は(偉そうでスミマセン),確実にこういう往復があるものなんだなと,思います(それだけではないですが)。

どちらであれ,両極端にふれてるようなのは,なんだかなあと思ってしまいますが,往復に耐えられる人にとっては,それぞれの主張からもなにかを得ることができるのかなと思います。

文章が乱れまくってますが,申し訳ないです。

投稿: psy-pub | 2007/08/13 14:32

>psy-pubさん

 お返事遅くなりました。いつものことながらすみません。

>基礎系も臨床系の程度の違いこそあれ,根本的な矛盾をもっているものであり,実はその矛盾こそが心理学のアイデンティティであったのかとも思うのですが

 おっしゃっていること、何となく分かります。精神物理学−内省−行動主義とずっと心理学がたどってきた揺れ動きがそこにはありますよね。今でもそれは形を変えて続いていて、例えば臨床の中でもエビデンス・ベースド対ナラティブみたいなことになっているように思います。

 ただ、それでもやはり

>基礎系の人はそういう無力感がより強いのではと思います

というところまで実感することはなく、それはもしかすると私が前回psy-pubさんのおっしゃった、

>事実,基礎系の心理学は周辺分野に吸収されていってる印象です

ということを実感できていないからかもしれません。私の周りにいる実証系の人々はまだまだ元気です。
 もしかすると私が言う基礎系とpsy-pubさんの言う基礎系は違うものなのでしょうか。実験系、ということになると確かに今は苦労が多いみたいですが。

 ただ、確かに心理学において、脳や神経生理学を取り入れた研究が盛んになってきている気はします。科学としての心理学がたどり着く1つの終着点はそこになるのかもしれません。かつてのフロイトもそうでした。精神分析はそこから大きく舵を取り、内界のより体験的理解へと向かいましたが、心理学が脳や神経生理的志向を持つのは分からなくもないことです。
 そうなってくると今度は、それは心理学と呼ばれるのだろうか、という疑問も浮かんできますが。

>量子力学や非線形科学とかのコンセプトに近いものがあるのかなという気がしました。すなわち「対象をあますことなく記述しうるのか(たぶん無理)」

 私の議論がそこまで高尚なものとも思わないのですが、でも言われてみると、そうなのかもしれません。量子力学などはニュートンでちょっと読むくらいなので全然分からないのですが、それでも科学としての心理学が「対象をあますことなく記述しうるのか(たぶん無理)」とは思っているように思います。科学的な方法だけが人間に接近する方法ではないだろう、と。
 この辺は心理学の定義にも関わってくるのかもしれません。

 少し離れますが、以前は臨床心理における方法論が不確定性定理と絡めて議論されていたことがありましたね。あの議論はどこに行ってしまったのでしょう、とも思います。

 いずれにしてもこれ以上議論を深めるには、科学とは何かという、科学論や科学哲学の素養が必要に感じて、もどかしいです。私にもpsy-pubさんくらいの読書スピードがあればいいのですが…。

>>2者関係と3者関係の往復に耐えられること、実際のところ私たちに求められるのはそれなのだろうと私は考えている
>なんとなく僕が「臨床の手触りがする」と思うような文章は(偉そうでスミマセン),確実にこういう往復があるものなんだなと,思います(それだけではないですが)。

 結論としては安直だと自分で書いて思いますが、それを実際に行えるか、というところにこの往復の価値があるのだと思っています。そうでありたいな、と本当に思います。

投稿: nocte | 2007/08/20 03:03

>私が言う基礎系とpsy-pubさんの言う基礎系は違うものなのでしょうか。実験系、ということになると確かに今は苦労が多いみたいですが

基本的な齟齬をほったらかしにしておりました! 申し訳ありません!

仰るとおり,実験系のことであります。もっといえば行動系といってもよいですし,認知系もしかり,とも思ってます。

この分野の心理学者が,ある程度立つと,みな心理学者ではなく,「行動(神経)科学者」ないし「認知(神経)科学者」というような位置づけに望むと望まざるとなっているような印象がありしてまして,

>そうなってくると今度は、それは心理学と呼ばれるのだろうか、という疑問も浮かんできますが。

というところにきているのかなという,これまた印象を持ってます。研究者個人としては,なんの問題もないですが,かつての心理学の本流というイメージはもはやない,といったところでしょうか。

これに問題性がある,とは思っておらず,ただ,心理学の持つ矛盾の当然の(ひとつの)帰結なんだろうなとも思い,ナラティブVSエヴィデンスの図式も,同じかなと思ってます。

科学論については実は僕もよく分からないのですが,

>以前は臨床心理における方法論が不確定性定理と絡めて議論されていたことがありましたね

僕の普段の雑文しかり,やっぱメタな議論は好きだし面白いんですけど,そういうことで研究が動いているんではないのだなとつくづく思いますよね。科学論は常に事後的で結果論的でしかないと思います。そして書籍出版も事後的である,と。

ゆえに,

>それを実際に行えるか、というところにこの往復の価値があるのだと思っています。そうでありたいな、と本当に思います

そここそが,と思いますし,まさにそこが「手触り」という感じでしょうか。ちなみにこの「手触り」は,それこそ,自然科学であろうと人文科学であろうと,エヴィデンスであろうとナラティブであろうと,あるものにはあり,ないものにはない,と思ってます(主観的な物言いでスミマセン)。 

投稿: psy-pub | 2007/08/22 20:14

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