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2007/07/24

学問・方法論・自己

 河合隼雄氏が亡くなった。そのニュースについてエントリを書く前にいくつかの経験があって、臨床心理学における研究と基礎系の心理学におけるそれとについて考えさせられた。

 河合隼雄氏の功績の1つは臨床心理学というものを1つの学問領域として築いたことにあると思うし、それが方法論においてそれまでの心理学とは異なる基盤を備えたものとして作られたことにあると思う。
 既存の(そしてもちろん現在の)心理学において研究者は観察者である。観察者はビデオや質問紙やインタビューを通じて間接的に対象に接近し、そのある側面を数量化する。これに対して臨床心理学において研究者は実践家であり、直接に対象に関与し、同時に観察を行う。時にビデオや質問紙やインタビューのコーディングとスコアリングを通じて数量化されることはあるかもしれないが、それは臨床心理学を本質的に臨床心理学たらしめているところではない。対象の理解は数量化されたものに基づくよりは、話し合われ、経験されたことに基づいている。対象は対象と呼ばれることすらない。
 「関与しながらの観察」という言葉や「一回性」という言葉は長く臨床心理学のあり方を表す言葉であったが、この方法論に基づきながら行われる知の蓄積を臨床心理学としてまとめあげていったところに私は氏の功績を見ている。その背景についてpsy-pubさんのエントリは興味深い。

 しかし、そうして臨床心理学が新しい方法論を備えたものであっただけに、心理学からの反発は大きく(政治的なそれもあるだろうけどそれは別にして)、今両者を臨床系と基礎系に分けるとすれば、基礎系から見た臨床系の研究は研究としての体裁を整えていないことになる。最近、質的研究として、臨床系における方法論のある部分を取り入れた方法論が現れてきているが、それに対する反応は冷ややかだ。
 基礎系の人間からすれば概念は研究上操作的な水準で定義される必要があるし、それは理論的に厳密に用いられる必要がある。しかし、臨床系の人間からすれば厳密な言葉の運用は概念化できない事象を多く生み出すことになり、それらを適切に概念化しようとすれば数多くの言葉が必要となる。それは臨床現場におけるリアルタイム性を大いに損なう。
 臨床研究において得られた知識には臨床家の関与の影響が当然含まれるが、それでは基礎系の観点から見た研究上の統制はなされていないことになる。しかし、臨床家の感覚からすれば事態を明らかにし、語られていないことが語られるようになるには何らかの介入が必要となる。介入への感触を通じて臨床家は現象を構成し、理解し、概念化する。その妥当性を基礎系の人間は問うことになる。当然のことだ。

 基礎系と臨床系の間に横たわる問題の1つは、こうしたそれぞれが寄って立つ方法論に起因する。

 問題のもう1つは私の個人的な感覚では、そこでの自己関与の程度にある。

 心は目に見えないし、手で触れることも出来ない。形もなければ重さもない。それは物質として同定されるものではなく、体験されるものだ。
 基礎系の心理学はこれを数量化する方法を通して、心に形を与えてきた。それはそれなりの歴史を重ねつつあり、様々な形で人々の健康や生活に寄与している。常識的な感覚に添った発見もあれば、思いがけない結果を示す発見もあった。しかしその方法はいつも心を目に見える数字に置き換えていくことだった。そのために心理測定があり、統計の手法があり、そこに様々なルールが存在している。いずれも心を適切に数量化するために必要であるとして積み上げられてきたルールだ。科学とはそういうものだ。
 臨床心理学はこれに対するある意味反発から生じている。目に見えない心を目に見える数字に置き換えたときに、実際の体験と研究の成果として述べられていることに大きな乖離があり、それでは心が十分に表され、取り扱われているとは言えない、という思いがある。当然だろう。理論も概念も現実を超えることはなく、現実は心によって体験されている。研究は体験されていることの範疇を思い掛けない方向から照らすことは出来るとしても、どう頑張ってもそれを超えることはない。まして数量化という変換を経れば、そこにエラーが生じる。そのエラーは基礎系の人々が考えているよりもずっと大きい。

 この対比の中で私が強調したいのはこういうことだ。基礎系の心理学に対して、その方法論では心が十分に表され、取り扱われているとは言えない、と言っているのは「私」なのだ。おそらく。十分に汲み取られていないと感じている誰かの声を臨床家が代弁しているのではなく、あるいは仮にそうだとしても、私の感覚では、そこに臨床家自身の声が混ざっている。自己関与の程度というのはそういう意味だ。
 誤解のないように言っておくが、それが間違ったことであるとは私は思わない。臨床家もまた人間であり、したがって自分の心が基礎系の研究によって十分に理解されたと感じられないという権利はいくらでもある。同じように感じる心理学外の人々だっているだろう。もしかしたら基礎系の人にもそう感じている人がいるかもしれない。
 私が言いたいのは、そういうことではなく、臨床系の人間にとって研究の対象となっているのはつまるところ自分自身であるように私には見えるということだ。それはある意味究極の関与しながらの観察であり、おそらく臨床研究が対象を対象と呼ばないことに密やかな影響を与えている。

 繰り返して言うが、私はこのことが間違ったことであるとは思わない。しかし、このことが問題として顕在化する時があって、それが研究の妥当性が問われ、概念の正確さが問われ、そうして様々に研究の正当性が問われるときであり、そのことに臨床系の人々が傷つく時だと思う。基礎系の人々にとって対象は他者である。したがって学問上の正当性は自己のあり方の正当性とは必ずしも重ならない。しかし、臨床系の人々にとって対象が自己であるとすれば、学問上の正当性を確認するあらゆる問いは、自己の存在の仕方への問いに容易に変換される。その理解は、その解釈は、その概念化は正しいのか、どうしてそう言えるのか、という問いは、あなたの心は本当にそういうものだと言えるのか、自分でそう思っているだけなのではないか、という問いに変わる。
 ここにおいて、基礎系の心理学には自分の心が理解されないという傷つきが反復されることになる。もっと言えばその時、心は理解されることを求め続けている(心とはそういうものだと私は思う)。

 ここに必要なのは、ある種のレトリックを使えば、おそらく強さと優しさの両立なのだろう。臨床系の研究は優しい。それは研究上のあるいは概念化や理論化における曖昧さの許容として現れている。そして基礎系の研究は強い。厳密で科学的であることは心に与えられた形に揺るぎない土台をもたらしている。しかし、私たちは優しさだけでは生きていけないし、強さだけが人間の姿ではない。優しさは弱さへの妥協であり、その受容でありうる。強さは弱さの克服であり、弱さへの恐れを隠しているかもしれない。ここでの弱さとは不確かさであり、それは私たちの心に内在している。
 私たちが生きていくことにおいて強さと優しさとを両立させる必要があるように、研究においても両者は両立される必要がある。それが人間の心に関する研究である限り、そうだと私は思っている。

 私たちはどこまで科学的な存在なのか。

 心理学における2つの方法論は、その問いをめぐって緊張関係にある。良く言えばそれは弁証法的緊張であり、悪く言えば瓦解への序章である。どこに向かうかの責任は私たちにある。

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コメント

ご無沙汰しております。示唆に富む言葉,勉強になります。

>したがって自分の心が基礎系の研究によって十分に理解されたと感じられないという権利はいくらでもある。(中略)もしかしたら基礎系の人にもそう感じている人がいるかもしれない。

ここですよね。僕のイメージだと,基礎系の人はそういう無力感がより強いのではと思います。だから叩かずにはおれないというか。防衛的ですね。あるいは磐石でないがゆえの非寛容のような気も。事実,基礎系の心理学は周辺分野に吸収されていってる印象です。

>私たちはどこまで科学的な存在なのか

かねてより仰ってるこのフレーズが気になっております。

自然科学的な意味でも,生命の一回性あるいは不可逆性というのは,認識されていると思いますが,そこにかかってくるのかなとぼんやりと推察するのが精一杯です……。

>心理学における2つの方法論は、その問いをめぐって緊張関係にある

いったりきたりでユラユラとその時なりの「平衡」を保つという,いい意味であいまいな状態が許容されること願ってやみません。

投稿: psy-pub | 2007/07/25 15:49

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