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2007/07/18

反省

 心理療法において話を聞くということは、日常生活において話を聞くということとはずいぶん隔たりがあると思う。語られていることを聞きながら、その語り口に注意を払い、語られていることの背景と語られていないことに思いを馳せるからだろう。今はあまり言われなくなったけれども、「心理に出来ることなんて話を聞くことだけ」と言われていた頃があった。そしてそこにこそ心理士の専門性もあった。知識や技術の総体として話を聞くということに現れる専門性を私は今でも大事なことだと思っている。臨床から離れてしばらくすると、この話を聞く、という作業が本当にできなくなる。それは臨床家として恥ずかしいことだと自分で思う。

 話を聞けないということについて心的水準よりももう少し分かりやすいところで話をすれば、例えば以前は50分という時間の単位が体に染みついていて、時計を見るまでもなく今の時間や残りの時間が分かったものだった。残りの時間でどれくらいのことを扱えるか、考えながら話を聞くことが出来たりもした。それが大学で働くようになって、学生の話を決められた時間の枠組みなく聞くような環境に身を置いたら、今でもこの時間の感覚を取り戻すのは難しい。
 今年に入っていくつかの新しい職場で臨床に関わるようになり、こうした聞くことの難しさを痛感した。内的世界を思い描きながら話を聞き、現実との橋渡しを行い、あるいはその見通しを立てる。そうした作業にもやがかかったように感じる。私たちは聞いている背後で何をすべきかを考えているだけではなく、聞いているその聞き方の中にそれを反映させているし、つまりは聞くということにかなりの能動性を込めている。それが聞く仕事としての心理士の専門性なのだろうし、それができないことは私にはもどかしいことだった。

 先日そんな難しさを抱えながらカンファレンスに出すために資料をまとめ、まとめている段階ですでに自分で話を聞けていないのを痛感した。そしてそれをカンファレンスのいろいろなコメントをもらう中でも感じた。以前に発表したものよりも話を聞けていないことをカンファレンス後に親しい先生から指摘をされたりもした。本当にそうだった。
 そのことでひどく落ち込んだりもしたし、まるで自分が臨床のトレーニングを始めたばかりの者のような気にさえなった。

 けれどもそれから少し耳の通りが良くなったようで、いくらか頭にかかったもやが晴れたような気がする。きっと心理療法において語ることが重要であるように、私たちもまた私たち自身のことについて語ることが重要なのだろうと思う。そしてそれと同時にダメなことはダメなこととして受け止めることも必要なのだろうと思う。人を変えるのは時に自信であるけれども、時に「本当にダメだ」という感覚ではないかとよく思う。そんな発想が私が抑うつポジションを信じることに寄与していて、もちろんそこにはダメな私を抱えてくれる環境が必要なのだけれども。

 本当は臨床に復帰した段階でSVを受けることが望ましいのだろうけど、SVの先生の都合もあってそうはいかない。話を聞くということの専門性を失っていることにひどく落胆し、深く反省をしている。

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