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2007/07/04

過去、here and now、AAI

 現代の対象関係論は、少なくともある時期の自我心理学が行っていたような過去の再構成というものを心理療法の主眼にはおいていない。むしろその焦点は面接場面における関係に当てられ、過去の体験ではなくhere and nowの体験が取り扱われている。こうした傾向は面接の中で起こることの全ては転移であるという考えが広まり、今生きているその体験を取り扱うことが人格の統合へとつながるという考えが広まるにつれて強くなり、その結果今では幼少期に何があったのかについては触れることなく面接が進められることもある。

 こうした認識は1つには転移への焦点化からもたらされた必然的な帰結であるといえるけれども、別の要因としては記憶についての研究の発達が関係してもいるだろう。精神分析の文脈で記憶研究についての言及が見られることはほとんどないが、しかし過去の記憶はそれほど正確ではなく、場合によって最近の記憶だって怪しいもので、それ以上に記憶とは再構成されて思い出されるということの発見は過去を扱う精神分析的臨床に少なくない影響を与えたと思う。
 そうでなくともクライン派の発想に従えば、乳児の体験は空想から生まれるのであり、語られる過去はかならずしも実際に起きたことを反映してはいない。それは当時の空想によってゆがめられ、また現在の空想活動によってもゆがめられている。したがって語られた過去ではなく過去を語るというその行為にこそ焦点が当てらるようになり、そこに現れる心の働きを捉えることが意味を持ってくるようになる。

 そうして「過去を取り扱うこと」は過去のものとなりつつある。

 クライン派や対象関係論におけるこうした傾向が強まると、やがて精神分析は乳児期という過去を捨てることになるのだろうかと時々考える。過去を語るという行為に潜む意味に注目し、語られた過去そのものや再構成される過去を捨て去ることは、心の働きを乳児が世界を体験する仕方で記述する必要をなくすことにならないだろうかと考えるのだ。
 これまでクライン派や対象関係論は発達の最早期に注目し、そこでの乳児の体験をもって心の原始的な働きを記述してきた。それが何らかの形で実証されるかどうかは別にして、それがフロイトによる精神分析の方法の正当な発展ではあっただろうと思う。したがって成人の心理療法においても、心の働きは乳児の心の働きによって記述され、つまるところ成人の心理療法においても乳幼児期の体験が思い描かれている。しかし現代的なやり方を進めて臨床の関わりから過去の意味がうすらいでいけば、それだけ心の働きを乳児の体験によって記述する必要性もうすらいでいくのではないだろうか。
 もちろんそれが精神分析的実践から得られた帰結であるならば、あるいは進展であるならばそれはそれで構わないのだろう。けれども同時に過去にはそんなにも何の意味もないのだろうかとも考える。私たちは過去との連続性なしには生きられない。今は過去からの積み重ねの上に成り立っている。もしもその残滓だけに注目して済むのであれば、私たちが発達について学ぶ意味はいったいどこにあるのだろうと考えたりもする。

 こうしたことを考えるとき、私はAAIについても考えている。

 AAIはよく知られているように、語られた過去の愛着関係ではなく、その語り方に注目しているという点において他の測度とは決定的に異なるものである。それがAAIが大きな注目を浴びた1つの要因であるとも言えるだろう。ここでの語り方とは、たんに過去の愛着関係をどのように語るかという点においてだけではなく、それをインタビュアーとの協調的な関係のもとに行えるかという点において捉えられるものであることは、もっと強調されて良い。Griceの会話の公準を持ち出して分析されるのは、たんなる心の一貫性ではなく、インタビュアーの質問に答えるという作業における心の一貫性なのである。
 幼少期の愛着関係について思い出せないと答えることが、たんに思い出せないことの現れではなく、それによってインタビュアーの関わりを遮っているときにそれはコーディングされる。語っていることの中に巻き込まれてしまうことは、インタビュアーの質問から離れていく時にコーディングされ、あるいはインタビュアーからの応答や賛同を引きだそうとしているときにコーディングされる。

 こうした観点は、here and nowの体験についてのコーディンを表しているものと考えることができる。それはインタビュアーに対して協調的かという一点における体験ではあるものの、それでもhere and nowの体験なのである。

 here and nowへの注目は、愛着理論においても1つのトピックなのだ。

 実際、過去の愛着経験が不適切であったように語るにも関わらず、その語り方自体は協調的であり、一貫性を保っているものはinsecureではなくsecureであると分類される。これは、過去を愛情のあったものとして語るsecureと区別するためにearned secureと呼ばれたりするのだが、いずれにしてもAAIにおいて重視されるのは語られた過去ではなくインタビュー場面での語り方や関係のあり方の方なのである。
 さらに最近になって発表された長期研究によれば、このearned secureはかならずしも幼少期にinsecureであった個人に当てはめられる分類ではないことが分かっている。誰の研究だったかは忘れてしまったが、幼少期から成人期までを追いかけた研究はそれほどないので、その中のどれかだろう。過去を何らかの形で愛情に欠けた愛着関係として語る人々は、実際に幼少期において何らかの形で適切でない愛着関係を持っていたとは限らないことをこの研究は示している。
 語られた過去を実際の過去として扱うことはできず、その意味はますます小さくなっている。

 こうした研究を思い浮かべながら、私は心理療法における過去の意味について考える。
 やがていつか過去について思いを巡らせることなしに分析的な作業を行うときが来るのだろうか。それともどこかで過去を取り扱うことの意味が再発見されるのだろうか。そういったことだ。
 こう考えながら、それでも私は何となく過去を取り扱うことの重要性があるとき再発見されることを予感している。根拠は特にない。強いてあげれば、精神分析とはその臨床実践においても、理論構築においても忘れさられ、分裂排除されていたことの再発見に基づいてきたからだ。

 けれどもその再発見が具体的にどのような形になるかは分からない。少しは思うところもあるけれども、もうしばらくこの考えを続けてみようと思う。何せこの文章は読みにくいのだ。私は普段から読みやすい文章を書かない方だと思うが、それにしてもこのエントリはややこしい。多分まだ思考にまとまりがないのだ。

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