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2007/06/26

オイディプス王

 ソポクレスの「オイディプス王」(藤沢令夫訳・岩波文庫)を読んだ。前から疑問に思っていたことなのだが、フロイトが描くエディプス葛藤は、この物語にうまくなぞらえられるものなのだろうか。フロイトの描く子どもの両親との葛藤は、この物語によってこそ適切に描かれているといえるのだろうか。

 フロイトが描いた子どもの両親との葛藤が全ての子どもにとって事実であるとは思わないし、ここではそのことは問題ではない。そうではなく、私がいつも疑問に思っているのは、例えばオイディプス王で描かれるオイディプスの悲劇は、フロイトが言うように母親と結ばれたいと望み、父親殺しを望み、その結果父親からの報復をおそれるような物語と読んでいいのだろうかということだ。
 フロイトが述べる子どもが両親との間で経験するこうした葛藤は、明らかに母親と結ばれたいという意図を前提としている。確かにそうした思いを語るクライエントはおり、それが根拠のない妄想だという批判に私は与しない。けれどもオイディプス王が父親を殺し母親と結ばれたのは運命によってであり、そこには意図がない。別の作家によるこの物語は父親の代からの呪いによるとされるらしいが、いずれにしても自らのあずかり知らぬところで父を殺し母親と結ばれることがこの物語に悲劇を生み出している。

 私は精神分析にとって「意図」というものの存在は大事なものだと思っている。私たちが何かを「無意識」あるいは「無意識的空想」というとき、それは1つの仮説に過ぎない。それは本人には明らかになっていない、あるいは本人が意識することを避けている何かでありながら、外から見ている私たちの目にはまるで本人が気付くことを拒んでいるように見えるものであり、あるいは本人の言動の背後に一貫して存在し、その言動に影響を与えている心の動きとして推測されるものであると私は思っている。ケースについて語る上ではあたかも明らかにされた事実であるかのように無意識を語るけれども、それは精神分析的な立場で語る人たちが、無意識についての理解は仮説であること、あるいは後に修正される可能性があることを共有しているからだと思う。それが確かに無意識であると言えるのはどこかで何かの形で「ああ、私は確かにそう思っていた」ということを本人が認めたときだろうと私は思う。
 したがって、無意識と言えそうなものを何でも無意識と呼ぶことは出来ないし、何らかの隠された「意図」がそこに存在しているということは精神分析的な意味で無意識であることの重要な条件であるように思う。例えば無意識の内容が隠された願望や、意識から切り離された怖れであるとき、そこには隠しておきたいとか切り離しておきたいという意図がまず存在している。さらに願望、あるいは怖れから生じる逃れたいという意図もあるだろう。私たちが「それ」を無意識と呼ぶとき、そこに「意図」が存在していることは見逃すことの出来ない要素であるように思う。

 そうした観点からオイディプス王に戻ると、そこにはこの「意図」がない。確かにそれは悲劇であり、心を強く打つ物語かもしれないが、それを父親を殺し母親と結ばれたいという子どもの願望と同じに語っていいのかということが疑問なのだ。本人は気付いておらず、したがって物語れないけれども、そこにこそ無意識があるという主張だってあるかもしれないが、それでは何でもありになってしまう。面接の中での言動や変化から無意識を読み取るということは、そこに隠された何かの手がかりが発見されるということではないのだろうか。本人が気付いていないとしても、確かにそれが無意識だと推測される根拠は少なくとも私の見る限りオイディプス王の物語にはないのだ。
 そもそもオイディプス王はまず父親を殺し、それからテバイへの道の途中でスフィンクスの謎を解き、民によって迎えられて王となり前王の妃、つまり母親を娶っている。それは順番として違うのではないかと思う。子どもにもたらされる運命やその悲劇を描く物語としては適切かもしれないが、子どもの願望を描く物語として適切だとは私には思えない。それがずっと疑問だったのだ。

 もっと言えば、エディプス葛藤は臨床的には男性のクライエントについて言われるよりは、ヒステリーの女性について語られることが多い。なぜ女性の物語を男性の物語で語るのだろう、ということもずっと疑問なことだった。

 今さらこんなに長々と書くことでもないのかもしれないが、私のこの疑問に答えてくれる人がいたら、誰か教えて下さい。よろしくお願いします。

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コメント

オィディプスに関するフロイトのとんでもない言いがかりが伝承されていくのは、精神分析の権威的な体質のなせるわざと思う。だがしかし、意図はある。イオカステはわが息子が足をピンで刺され、野に放たれたのを知っていた。ライオスは呪いを恐れて自分を放置する。生き霊が、思慕と性愛がないまぜになって、息子を求めて地に放たれたとしてもおかしくはない。たかが謎を解かれたくらいでなぜ、スピンクスが自死しなければならないのか考えれば不思議だが、オイディプスをテーベに導くことが目的で、しかもそれが自らの破滅につながることがわかっていたとするなら、それは自らの自死の前奏曲だ。しかも問の答えは人間。人間でありつつ、自らの出自を知らず、問いに答えられると誤解するものだけが罠にかかる。本当に見えないのはオィディプスの目ではなく、イオカステの目。オィディプスがイオカステのピンで目をつぶすのは、その模写にすぎない・・・

投稿: | 2007/06/26 05:38

質問に対する回答ではないですけど、ちょっと連想したことをちょこちょこと書きます。

僕がエディプスの意図や気持ちがとても強く感じるところは、物語の後半部分です。父を殺し、母を娶ったことをしったエディプスが、自らの目を潰し、アンチゴネを連れて旅立った後です。

その後、確か物語は続いていたと思いますが(読んだのがかなり昔なので少しウロ覚えですが)、ずっと何十年とエディプスは罪の意識と共に、それでも生きていくという意志をもち、行き続けます。乞食になろうが、地べたを這い蹲ろうが生きていきます。これってとても強い意思がないとできないことかなって思いました。

ちなみに、エディプス王の物語が、エディプスコンプレックスと微妙にずれているんじゃないかって言う疑問は恐る恐る抱いていましたが、そんなことを言ったら後ろから刺されそうだったので、今まで誰にも言ったことはありません(笑)

投稿: セーイチ | 2007/06/27 01:01

>裕さん

 つまりその意図はイオカステのそれだということ?

 スフィンクスがもたらす謎は、その問いそのものではないでしょうね。問いに答えても答えられなくても、どちらかに死は訪れて、何よりスフィンクスの出現はオイディプスが父ライオスを殺害した直後。これによってライオス殺害の犯人探しは先に延ばされ、オイディプスの悲劇への舞台が整うわけです。
 スフィンクスとは何者なのでしょう。ここにもイオカステの存在を読み取れるのでしょうか。

>セーイチさん

 ソポクレスでない別の作家の物語はこの悲劇の場面を挟んだ3部作のようですが、ソポクレスのものはこれ1つで独立しているようです。訳者解説にそう書いてありました。

 オイディプスの悲劇のもう1つは自分の妃の夫であり先王であったライオスを殺害した者にかけた呪いが、自らに返ってくるところにもあります。父を殺し母と結ばれ、自らの呪いに呪われる。悲劇は幾重にもかさねられています。
 そして確かにソポクレスの物語でもオイディプスはその運命から逃れようとはせずに舞台から消えていっています。私もそれを責任や覚悟のようなものとして考えていましたが、改めて言われてみて、そのように力強いものと捉えていいのだろうかと考え直しています。

 ちなみに私もまだ現実世界でこのことを口にしたことはありません。伝統とは足かせでもあるでしょうが、その二律背反を生きるのも1つの方法だろうと思っています。

投稿: nocte | 2007/06/28 01:32

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