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2007/03/09

病院において心理療法をすること

 つなでさんのところで心理療法が心理臨床の核なのではないかといったエントリが上がってた。私も基本的にはそれに賛成している。私たちが心の機微については、あるいはその襞に触れることについて本当に理解できるのは、心理療法、しかも数10回を超える心理療法の経過の中だけだろう。それ以外の様々の臨床心理学的援助がその重要性を失うものではないとしても、一人の個人に深く関わるということから学べる心についての理解は他の方法では得られないものだろうからだ。ただ、これが大学院生の研修(これは必ずしもつなでさんが書かれていることではありません)ということになると話は違ってくる。これを核とすることについて気になることがないでもないのだ。

 そもそも心理療法を私たちの仕事の核とすることには、いくつかのリスクが存在している。

 1つは、その質の問題だ。私たちがクライエントの話をどのように聞き、どのように関わるかによって、そこでどのようなことが語られ、どのような展開がみられるようになるかは変わってくる。私たちが未熟であれば(そして私たちは多くの場合実際に未熟なのだが)、そこで得られる心の動き方、変わり方、連続性等についての理解も未熟なものにとどまってしまう。
 また、私たちの見る視点が異なれば見えてくるものも変わってくるだろう。学派の違いということで語られることの多いこうした視点の違いについて、私たちはいつまでも疎通性のないまま独立に話を進めていっていいわけでもない。それらは同じ心の異なる側面に光を当てようとしているのだから。しかし、それでも実際のところ私たちは私たちの立ち位置においてしか物事を捉えることはできないわけで、心理療法のように主に二者関係にとどまるものは、私たちの限界をそのままクライエントの成長の限界としてしまいやすいかもしれない。
 なにより、それだけ心を深く理解することである以上、心理療法において私たちは個人の心の領域に深く踏み込むことになるわけで、それだけクライエントの反作用も大きくなるだろう。日常の交流からは身を守ることができても、心理療法における交流に対してはクライエントが身を守る術を持たない可能性もあって、したがって心理療法を行うにはそれなりの責任とまた私たちの側にも覚悟が必要となる。

 現在これだけ臨床心理学を学べる大学院が増えてくると、いきおいこうした問題についての検討が薄められてしまう。大学院の入試は定員を確保するためにいつでも水準を高く維持できるわけでもなく、私も人のことはいえないけれども教員の質も不ぞろいになりやすい。大学院に併設された相談機関でのケース数を確保することが難しい大学院もあるだろうし、実習の受け入れ先を探すことも難しい大学院があってもおかしくない。そうした状況で心理療法に臨む私たち自身の限界を問い、その責任と覚悟が養われるかというと疑問であるわけだ。

 一昔前の人の話を聞くと、臨床心理を志す人がたとえ病院で働くことができても、そこですぐに心理療法ができたわけではないという。事務作業をしたり、雑用をしたり、今で言うOTやPSWの仕事をこなさなければならなかったり、仮に心理として仕事ができてもテスターとしてとにかく来る日も来る日もテストを取り続けたり、そうした日常業務を行う中で築かれた信用の上にはじめて心理療法のオーダーが出されたという。心理療法を行うということはそれだけの重みがあることなのだと思う。
 逆に言えば、大学院に入ったからといって決められたレールに運ばれるように心理療法を行うべきではないということでもあるのだ。確かにそれは心についての私たちの理解を深め、様々な領域で臨床心理学的援助を行う際の大切な基盤を与えてくれる。その意味ではこれが私たちの仕事の中心に位置づけられてもいいとは思うが、それは必ずしも私たちの日々の実践や特に研修の中心にはならないのかもしれないと思ったりする。様々な先達の苦労によって私たちに心理療法を行う環境が用意されてきたことは幸せなことなのであって、決して当然のことではない。それを実感するにはあまり簡単にここにたどり着かないほうがいいのではないかと思ったりするのだ。
 こんなことを言うと年寄りじみた気にもなるのだが、最近になって心理臨床に入ってきた人の中には以前私たちが持っていたようなハングリーさがないことが増えてきているように思う。実習先も、臨床に関わる場も、就職先もそれなりのものが待っていることを期待して、あるいはそれが当たり前であるとして選り好みをしているようにも思える。選り好みはしないまでも、心理臨床を学ぶということ以外の気になることがたくさんありそうなのだ。ある程度の身分や生活水準が保証されることは長年のこの学界の願いではあったし、実際今の人々がそうした状況にあるとしたら、それは喜ばしいことでもあるのだろう。けれどもそれは心理臨床の重みとはまた別の問題であって、私は初心者であるほど心理療法にたどり着く前の苦労というものを、そして心理療法を行っている間の苦労をきちんとした方がいいと思っている。

 そのようなわけで、私は必ずしも心理療法を私たちの研修の核として位置づけなくてもいいようにも思う。心の理解を深めたい人は苦労してその環境にたどり着けばいいと私は思う。その意味で私は精神分析というものが好きでもあるのだが、精神分析を学ぶことにはほとんどなんの保証もない。お金はかかるし、時間もかかるし、その結果必ずしも良い待遇が待っているわけでもない。場合によってはその選択が非現実的であると言われたりもするわけだ。それでもこれを良いと思う人がそれなりの覚悟で臨むわけで、精神分析そのものの是非はともかく、そこに見られるような姿勢が心理療法には必要であると思うのだ。あまり簡単に心理療法を行える環境を整えない方がいいのではないかと、そんなことを思ったりする。

 そうは言いながら、やはり心理療法に関わるものとして、院生にはその良さに触れて欲しいとも一方では思い、いくらかここに書かれていることが極論になろうとしているようにも思っているのだが。


3/9 追記:リンクをつなでさんのブログのトップページにしていました。当該エントリに変えています。

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