« 精神分析学会報告 | トップページ | 卒論生用メモ »

2006/12/02

マニュアル

 psy-pubさんのところで、マニュアルについて話が上がっていたので、比較的短絡的に反応。その昔前田重治先生が心理療法を学ぶにはまずは「型」を身に付けるところから始めるといい、ということをおっしゃっていたのを思い出した。マニュアルではなく「型」。芸能好きの前田先生らしい表現だと思う。

 精神分析にはたくさんの「規則」がある。その規則には、言葉によって想起されるべき記憶が行動によって表現されることを防ぎ、それによって自由連想の中に現れてくる無意識を解釈することを可能にする、という明確な方向性が内在している。中立性、禁欲規則、分析の隠れ身、時間・場所などの治療構造の設定、平等に漂う注意、寝椅子の使用、料金の支払い、そうした決まりの1つ1つが葛藤を浮かび上がらせ、同時に個人の内的世界を守るための治療的意図をもって現在まで維持されてきた。そうした規則とともに行う心理療法の方法論を前田先生は「型」とよんでいたのであり、その言葉にはやがてその先で自分の「型」を身に付けることの期待が含まれていたのだと思う。
 それは1つの見識であり、また臨床を学ぶということの実際を反映していると私は思う。始めに学ぶものが形の定められたものであれ、あるいはそうでないものであれ、私たちは常にその定められた形や規則と対話し続けていくべきだからだ。中立性とは治療者が中立的であることを意味するのではなく、中立的であろうとする姿勢を表しており、同時に中立的でなければならない苦しみをも表している。中立であることは安全を提供することであり、同時に無関心さでもあり得る。その葛藤を心理療法を受ける個人だけではなく、治療者としての私たちも経験している。それが果たして正しいのか、間違ってはいないだろうか、そうした振り返りと不安とを抱えながら、それでも中立的であろうとしている。心理療法に見られるそれらを「型」と呼ぶのは、そうした対話をその中に含んでいるからではないだろうか。こうしたことは精神分析の領域に限った話ではないと思う。型破りな方法論が輝くのは、そこに「型」が存在していたからで、始めから「型」がなければそれは混沌である。「型」や「規則」は1つの枠組みであり、同時に限界であり、そこにぶつかりながら形の変わっていくものでもある。
 「マニュアル」という言葉には、残念ながらそうした対話的響きが感じられない。それは日本語に訳され、日本において用いられている状況による要因なのかもしれない。もしかすると欧米でマニュアルという言葉を使う時には違った響きを持つことになるのかもしれない。したがってこれは日本での話なのかもしれないけれども、マニュアルという日本語に私が感じるのは、簡便であるということであり、もっと言えば個人の感想や感じや考えというものを必要としない姿勢だ。マニュアルはそれに従えばことが足りるものであって、私たちにそれについて考えることを求めない。むしろそこから外れることは事態を面倒なことにすると嫌がられる種類のものでさえありそうだ。マニュアルという言葉には思考の軽視が感じられ、それは治療者的ではなく、また治療的でもないだろうと思う。

 こうした議論はもちろんpsy-pubさんが言うように、抽象論だ。なぜならそれは治療というものへの、あるいは心理療法という営みへの姿勢の問題であるからだ。その中身がどのようなものであろうと、それとの対話が私たちを成長させ、また言葉による心理療法を可能にすると思う以上、考えるという作業を軽んじる顔をした言葉を、はいそうですか、と受け入れてしまうわけにはいかないのだ。

 もちろん、現実的な仕事において、労力の節約は必要なことでもあると思う。そうであるから、マニュアル的なものは必要なのだろうと私も思う。Kernbergや力動的短期療法家たちの中でも心理療法のマニュアルが作られたりもしているくらいだ。それは困難な状況における指針でもあるのだろう。そうであれば、私はそれを指針や手引きとよんだ方がいいと思う。先達に手を引かれてたどたどしい歩みを踏み出しても、いつかはその手を離れて独り立ちすることを私たちは考えなければならないからだ。そして同時に、優れた指針にはいつまでも手を引かれ、道を指し示してもらってもいることに気付くからだ。
 中身の問題ではなく、それを入れる器の問題なのだ。けれども、器とはつまり中身の象徴でもある。だからそれを簡単にマニュアルとよんではいけないのではないだろうかと思うのだ。

|

« 精神分析学会報告 | トップページ | 卒論生用メモ »

コメント

psy-pubです。

反応ありがとうございます。大変面白く読みました。ぜんぜん短絡的じゃないです。

「型より入りて型より出づる」つうのは,日本人には合いそうですよね。

抽象的なマニュアル論,好きでして,ブログの裏テーマのひとつでもあります。

http://blog.goo.ne.jp/psy-pub/e/d41fdea204d10b29515e980284965fa8
http://blog.goo.ne.jp/psy-pub/e/45baf329184dc41493d19a24f3845aba
http://blog.goo.ne.jp/psy-pub/e/a7cdcea16c0e83053d621a2e6a6d89db

などにも,愚にもつかないことも書いてたりしますが,受け取る側の問題なのかなと短絡的に思ったりしてます。その性質上,あたかも100%のように書かれてますけど,そんなわけはないんですよね。

神田橋先生なんかも,「医師」「精神分析」という強烈な枠があってこそ,今の独自の世界を築きえたような気もし,型にしっかりとはまりつつ,型そのものを疑う姿勢ってのは,お題目じゃなく,大切ですね。

個人的には,型はものに対するフォーカスの仕方,だと思いますので,あるものにフォーカスするときには,他のものにはフォーカスできない,それを覚悟しつつ,ある型を選ぶというのは,ひとつの重要な決断であると思いますが,そこにおいて思弁を欠いてしまうと,いわゆるマニュアルの弊害になってしまうのでしょうか。

やっぱ抽象論,大切だなと思います。抽象論が出来る体力が。

投稿: psy-pub | 2006/12/03 14:43

>抽象論が出来る体力が。

抽象論を語るには体力だという発想が新鮮です。確かにそうなのでしょうね。そしてその基礎体力とは、具体的な日々の営みが積み重ねられているかであるのでしょうね。

何かを選択するということは、別の何かを選択しないことだと私の指導教員も言っていました。その喪失を引き受けていくということが成長というものなのだと思いますし、覚悟でもあるのだと思います。
それなしの臨床も、抽象論も、好きか嫌いかの域を出ないものなのでしょうね。自戒の意味を込めてそう思います。

投稿: nocte | 2006/12/05 01:50

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/88325/12899785

この記事へのトラックバック一覧です: マニュアル:

» マニュアルはパラダイムの転換を導くわけではないが故に拒絶されるのか [心理学の本(仮題)]
やっぱ,すごいなぁ,と妙に感心してしまった本があるわけです。 [続きを読む]

受信: 2006/12/03 14:15

« 精神分析学会報告 | トップページ | 卒論生用メモ »