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2006/10/26

心を心として理解すること

 私たちが接近し理解しようとする心は、定まった形を持っていない。シュレディンガーの猫のように、それに接するまでは確率論的な存在でしかなく、それに接してしまえばその影響によって同定される。私たちの関わりによって心は姿を変え、純粋な心に触れることはできない。
 それでも心はそこに存在していると私たちは強く主張する。

 様々な行動指標があり、様々な測度が開発され、そうした物差しで測定される心のありようが、人の心の状態をさまざまな人が共有し、議論するための必要な情報を提供している。治療者としての私たちへのクライエントの関心は質問紙で測定されるかもしれないし、視線や接近行動などの指標で特定されるかもしれない。実際にはその測度自身によって姿を変えられているとしても、それによって数量化される心の状態は心理療法のある側面の、客観的な把握と議論を可能にしている。
 けれども同時に、それが意味のある指標となるのはその指標の背後には心が伴っているとされるからだ、という点は忘れてはならないと思う。クライエントの心のありようを反映するからこそ、その指標は指標としての意味を持っている。逆に言えば、心が伴わない指標は単なる数字でしかない。にもかかわらず、そうして数量化が進められていくと、時折、心が伴っているかどうかに関わらずそうした指標が見られるかどうかだけが議論されることがある。どんな指標が使われているのか、心理療法によってその指標がどのように変化したのか、そうしたことが議論されやすい。

 私たちに何かを大切に思う気持ちがあったとし、その証拠を見せろと言われたら私たちはいったいどれだけの証拠を提供できるのだろう。それは勘違いではないのか、思い込みではないのか、何をもって好きだというのか、そうした議論に巻き込まれ、そうした議論に巻き込まれること自体が私たちの心を損なう。

 心の表れとして捉えられる指標は必ずしも前もって決められるわけではない。心理療法の過程において現れたちょっとした言葉遣いやちょっとした表情の中に私たちは相手の心の動きを読み取ることがある。それが確かに心の動きを反映したものだったと分かるのは後になってからのこともあるし、その状況の他の要素を考慮に入れてから理解できることもある。何よりそれは一瞬のことなのでうまく記録に残せないことだってある。記録に残らないそうした理解は、単なる思い込みや勘違いや主観的な意見でしかないとして、なかったことのように扱われてしまうことだってあるかもしれない。
 それをそう捉える根拠は?その問いは間違いを冒さないための慎重な問いであると同時に、不確かさの中を進まなければいけない心理療法家の足をとどまらせる問いでもある。

 心を心として理解することは難しい。定められた指標があるわけではなく、理解は一瞬だ。それにくらべればいくつかの指標を持って心の表れであるということはずっとたやすい。その指標を定める作業に大きな困難が伴うとしてもだ。
 それでも、と思う。私たちは心を心として理解したいと願う。たとえそれが不確かな試みであるとしても、指標を持って心とするのではなく、心を心として理解したいと願うのだ。そのことがクライエントが心を心として理解することを可能にする、そんなふうに思う。願わくば、そうして私たちが心を心として読み取る時に見られたわずかな手がかりを、大切な手がかりとして記録に残すことができればと思う。

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